目次
壱、鹿苑寺流 鹿苑寺流を知る
弐、松田家一門 祖の松田家一門に関すること
参、大河内松平家 松田宗家の後継家
肆、後松田家 松田祖を示すための後継家
伍、三条家 三条家の概要
陸、至輝 真の名前と哲学者
漆、皇霞京 別名について
捌、松平三条家歴代 松田宗家に連なる人物
玖、三条家・大河内松平家 分家の人物系図
拾、本姓 松平氏に関する本姓について
宝、三条ブランド 未来のお話
他、分家一覧 松平四家からの分家
鹿苑寺流
鹿苑寺流とは
時を遡れば室町時代、足利尊氏が創始した室町幕府での祖の松田家の立場は御家人であった。
年代を示せば、系図から頼貞が生きた時代の全盛期、1336年(延元元年)京都に室町幕府が開かれた。
室町幕府足利将軍家と松田家御家人との関係に於いて、
室町幕府第三代征夷大将軍足利義満は1394年(応永四年)に、
開祖となる鹿苑寺を河内国と交換に西園寺を譲り受けた別荘に由来があり、
その鹿苑寺にある龍門滝は、鯉魚石より二つの流れに分けれていることから、
松田家の頼直流と頼行流に重ねられ、
鯉魚石は法的血族の出自である藤原北家魚名流を指し、
鹿苑寺の山号の北山と応永四年と合わせ、藤原北家四条流(閑院流)を表す。
更に、桓武平氏流松田家の家紋「丸に二本松」を併用することで
松田家一門を表している。
また、藤原氏の藤原鎌足を始祖とし、公季を始祖とする徳大寺の閑院流。
藤原氏の魚名からの系統で、隆季を家祖とする四条家、
その弟の徳大寺からの養子、実教を家祖とする山科家の四条流。
藤原鎌足の原点から閑院流、四条流の二つの系統に分かれ、
その二つの流れが一つとなる山科実教で「龍門滝」を表す。
それに合わせ、松田家頼の後継である達頼は龍を示し、
その後裔にある、松平信綱の実子から松平輝綱流と松平信興流に分かれ、
信復が輝規の養子、輝高が信祝の娘の兼の婿養子になり、交換(クロス)して、
一つの流れになることから「龍門滝」を表す。(系図参照)
それに付け加え、松田勝慶の流れでの松平正綱を始祖とする大河内松平宗家、
その松平正敬からの養子である輝聴で一つとなり、「龍門滝」を表す。
計三つの龍門滝で、「三乗」の三条実行を示す。
尚、松平正敬は信綱の血筋となる。
三条実行は、松田家始祖の頼盛の縁となる、転法輪三条家の始祖である。
本流にあたる血筋の流れが、滝の名から「龍門流」から転じて、
「鹿苑寺流」と名付ける。
即ち鹿苑寺流は、松平信綱以降の松田家本流の本姓にあたる。
松田家一門
一覧
丹後守系松田家[秀頼流 評定衆]・伊勢平氏維盛流
豊前守系松田家[頼行流 奉行衆]・藤原北家四条流山科庶流
頼邦系松田家[頼邦流 奉公衆-奉行衆]・藤原北家四条流山科庶流
若狭守系松田宗家[頼盛流 奉公衆]・藤原北家閑院流徳大寺庶流
対馬守系松田家[秀経流 奉行衆]・伊勢平氏維盛流
相模松田家[直頼流 北条家臣]・藤原北家四条流山科庶流松田支流
備前松田家[直頼流 備前国守護代]・藤原北家四条流山科庶流松田支流
長江家[猶子 貞頼]・桓武平氏鎌倉氏流
南部家[猶子 頼冬・頼近]・清和源氏系河内源氏義光流
松田家一門
公家の家柄である山科教頼は、曾祖父の平業房が平家の平宗盛に処刑された経緯から、
松田を号し、松田頼盛と名を改め分家する。
平家は仇であるが、平家が成し得なかった覇業を追い求め、松田家一門として、
松田家の繁栄に、子々孫々に広がりを見せる。
頼盛は、鎌倉幕府の御家人六波羅引付衆に任官し、嫡流の後裔が丹後守に任じられる。
頼盛の後裔は頼直と頼行に分かれ、頼直は更に秀頼、頼邦、頼貞、秀経と四つに分かれる。
後に、丹後守系(秀頼流)、豊前守系(頼行流)、若狭守系(頼貞流)、対馬守系(秀経流)となる。
簡潔に、松田家は三つの本姓から成り立ち、桓武平氏流(伊勢平氏維盛流)の自然血族を祖とする
秀頼流、秀経流の幕府官職は奉行衆。
藤原北家四条流山科庶流の法的血族を祖とする、頼行流は幕府官職は奉行衆。
頼邦流は奉公衆に始まり、系図に着目し頼久の代の左側を見てみると、
頼行流の元成が見え、ここから同じ二本線直違の家紋を使用している。
元成は奉公衆であることから、頼久からは奉行衆となり、
頼行流と幕府官職が入れ替わっている事柄が、
頼邦流の末端にある松田頼恵が奉行人である官職から窺える。
頼行流から分家した備前松田家が奉公衆となり、頼行流の本流は奉行衆の立場は変わらない。
これは家紋のクロスした形状から合わせられ考えられたものと推測する。
藤原北家閑院流徳大寺庶流の法的血族を祖とする、頼貞流の幕府官職は奉公衆。
尚、備前の松田家と相模の松田家は系図にあるように、
松田家の支流となり、家紋から公家であることがわかる。
松田家は、南北朝時代を迎えると、足利氏に仕えるようになり、
室町幕府では、奉行衆としてその名を歴史に刻み、
丹後守系秀頼流は、最高機関とされる評定衆、豊前守系頼行流は奉行衆、
若狭守頼貞流は奉公衆、対馬守系秀経流は奉行衆。
至輝の直系にあたる、奉公衆の頼貞流は、奉公衆、弾正台、若狭守を歴任する。
弾正台では、(享禄元[1528年]頃)信頼のときに長官である弾正尹の職位に就く。
頼貞流は陰的な位置にあり、室町幕府滅亡後、表舞台に立つため、
江戸幕府が開かれるとともに、後裔の頼通の二男・松田信実は、大河内松平家の養子となり、
松平信綱と名を変え、江戸幕府の御家人として、また、別名伊豆知恵として、その名を世に轟かせるのであった。
大河内松平家
後継家
松平伊豆守信綱
松平伊豆守信綱は、松田頼通の二男の松田幸右衛門信実である。
松田信実は、松平正綱の養子になり「松平正永」と名が変わる。
松平正綱と思われる、松田勝慶の後裔の一子・五郎が大河内秀綱の養子に入り、
大河内松平宗家の始祖となる。
正綱に実子の松平利綱が誕生すると、正永は諱を「信綱」と改める。
元和九年に御小姓組番頭に任命、その同年伊豆守に任官される。
松平伊豆守は、江戸時代に大河内松平家の人物が伊豆守に就任したときの呼び名である。
寛永十年には江戸幕府の老中に任じられ、寛永十四年、島原の乱の一揆を鎮圧させた。
翌年、信綱は老中首座となり、幕政を統括した。
後に、島原の乱の勲功が賞され、寛永十六年に六万石で武蔵国川越藩に移封する。
徳川家綱時代になると、家綱の補佐に当たり、慶安四年、慶安の変を鎮圧し、
承応元年、老中暗殺を目的とした承応の変も鎮圧した。
明暦三年に起きた明暦の大火の災害復旧に尽力し、手腕を働かせ、
その後、寛文二年に老中の在職のまま死去した。
信綱は知恵伊豆と称され、江戸幕府体制を完成させた主要な人物である。
人物・逸話
・家光は「いにしへよりあまたの将軍ありといへども、我ほど果報の者はあるまじ。
右の手は讃岐(酒井忠勝)、左の手は伊豆」(『空印言行録』)と評し、
忠勝と信綱が幕府の確立に大きく寄与したことを評価している。
また「伊豆守のごとき者を今一人持ったならば心配は無いのだが」と小姓の三好政盛に
語った。
・柳生宗矩、春日局と共に家光を支えた「鼎の脚」の一人に数えられた。
・酒井忠勝は阿部忠秋に「信綱とは決して知恵比べをしてはならない。
あれは人間と申すものではない」と評している。
その他多数
高崎藩系歴代
伊豆守系大河内松平家
初代 松平信綱(1596 - 1662)[武蔵国忍藩主、武蔵国川越藩主 伊豆守]
高崎藩大河内松平家
初代 松平信興(1630 - 1691)[常陸国土浦藩主 因幡守]
二代 松平輝貞(1665 - 1747)[下野国壬生藩主、越後国村上藩主、
上野国高崎藩初代藩主 右京大夫]
三代 松平輝規(1682 - 1756)[上野国高崎藩二代藩主 右京大夫]
四代 松平輝高(1725 - 1781)[上野国高崎藩三代藩主 右京大夫]
五代 松平輝和(1750 - 1800)[上野国高崎藩四代藩主 右京大夫]
六代 松平輝延(1776 - 1825)[上野国高崎藩五代藩主 右京大夫]
七代 松平輝承(1817 - 1839)[上野国高崎藩六代藩主 右京亮]
八代 松平輝徳(1820 - 1840)[上野国高崎藩七代藩主 右京亮]
九代 松平輝充(1822 - 1862)[上野国高崎藩八代藩主 右京亮]
十代 松平輝聴(1827 - 1860)[上野国高崎藩九代藩主 右京亮]
十一代 松平輝聲(1848 - 1882)[上野国高崎藩十代藩主 右京亮]
戸田家
◯代 戸田氏秀(1872 - 1924)[東宮職庶務課長 宮内事務官兼式部官]
一代 戸田氏重(1890 - 1940)
考察
正綱と信綱の養子は偽りで、松田家からの分家となり、
「松平伊豆守家」は後に「吉田藩大河内松平家」となる。
「正永」から「信綱」と諱を変えている事から、
織田信長との関連性を暗示している。
正永の諱は山科言綱にも関連付けされており、山科言綱は永正十五年六月二十六日叙従三位
とある。最終的には従二位・権中納言で、永正の年号から上下反対になっていることがわかる。
山科言綱の先代が言国から通字を反対にして、山科家から今川国氏、そして松平信綱までは家系
としてつながっている事実を示していると解釈できる。
「正」の字は、大河内松平宗家との関係性を示しており、実際に松平伊豆守家から正温が
養子に、また大河内松平宗家の輝聴が高崎藩松平家に養子と支流的な関係が見てとれる。
また、鹿苑寺流の二つの流れがクロスする形状が二匹の蛇を表すと共に性的な意味を持ち、高崎藩大河内松平家の副紋の蛇目紋から無鄰菴にある猪◯問題と紐付けている。
更に西家である蛇目紋は加藤氏の家紋であり、著名な人物は築城の名手である加藤清正の官職の「侍従兼肥後守」と紐付け、裏である松田宗家の後継の三条家は◯◯兼◯◯の官職であると示している。
後松田家
大垣藩戸田家
系図
戸田氏光 ─ 一西 ─ 氏鉄 ─ 氏信 ─ 氏西 ─ 氏定
┌────────────────────────────────────┘
│
└── 氏長 ─ 氏英 ─ 氏教 ─ 氏庸 ─ 氏正 ─ 氏彬
┌─────────────────────────────────────┘
│
└── 氏共 ─ 氏秀 ─ 氏忠
戸田氏共
╟── 米子 ┌ 氏重(松田姓) ─ 幸太郎
岩倉具視 ─ 極子 ╟──┴ 氏忠(戸田流嫡流)
戸田氏秀
╟─── 氏直(戸田流支流)
富子
重複した名前
戸田氏秀 松田輝耡 三条輝耡 上野英三郎
戸田氏重 松田氏重 三条輝成 吉野作造
松田幸太郎 三条輝治 芦田幸太郎
後松田家
信実
はじめに、後松田家を別称として、奈良松田家と呼ぶ。
次に、大河内松平家と松田宗家のつながりは世に公表していないと同時に、
大河内松平家にとっては不都合なため、明治初期から中期に於いて、
考えられたであろう戸籍は、到底正式なものをにはできず、祖を関連付けた形式での名称で、
松田徳太郎こと吉野作造が未来に真実を打ち明けるべく関係性を示す戸籍を作成した。
前項目にある系図は、それを元に戸田家との関係をわかりやすくし作成したものである。
戸田家は松田家
戸田家を後松田家の戸籍に当てはめた形の系図から、松田幸次郎は戸田氏共と重なる関係で松田家に嫁いだと示されている。戸田氏秀は松田氏秀である事実が示されており、婚姻と同時に松田の姓に変え、大垣藩戸田家は表上の形式であり、家族の姓は松田であり、戸田氏秀は仮の名前だと読み解ける。
フサ子
フサ子の「フサ」は、山科家から分家した教成から数えて山科家五代目の「山科頼房」を指し、
また、山科教成の親の「平業房」を指す。
「山科頼房」は「松田頼盛」と改名し分家する。
主要関連付けリスト
第一本籍地 奈良県磯城郡(現 桜井市)
第二本籍地 大阪府岸和田市 本徳寺 明智光秀肖像画所蔵 近辺
第三十代 大阪府大阪市城東区今津中(現 鶴見区)
岡寺(龍蓋寺) 十三重石塔 浦野徳太郎(氏重)
松平西家
・武蔵太田家(武家) 家祖 資治 著名 太田資正 家紋丸に細桔梗
・富小路氏 (半家) 家祖 道直 極官 宮内卿 家業 和歌・医道など 家紋藤の丸
松平京家
・小出家(武家) 家祖 秀政 幕府官職 和泉岸和田藩主 家紋丸に額
・今出川菊亭氏 (清華家) 家祖 兼季 極官 太政大臣 家紋三つ紅葉
・竹内氏 (清華家) 家祖 氏治 極官 非参議 家紋笹竜胆
・白川伯王氏 (半家) 家祖 資邦王 極官 参議 家紋梅
・醍醐氏 (清華家) 家祖 冬基 極官 左大臣 家紋下り藤
・日野流北小路氏 (名家) 家祖 徳光 職業 伊勢神宮大宮司 家紋鶴の丸
・桜井氏 (名家) 家祖 兼里 極官 近衛中将 家紋五七桐紋
・烏丸氏 (名家) 家祖 豊光 著名 烏丸光広 家紋鶴の丸
・裏松氏 (名家) 家祖 資清 著名 裏松通世 家紋鶴の丸
徳川家康の出自
明智光秀の肖像画には「輝雲道琇禅定門肖像賛」と記されている。
この戒名の中に「輝」「琇」が「光秀」の諱を表す。
「輝」は上杉輝虎で、「琇」は頼盛からの分家の白川伯王家を示す。
ここから徳川家康の松平四家のどこの出自であるかが示されている。
白川伯王家の家祖は資邦王で、松平東家の始祖である頼邦の諱の由来を示す。
次に、武蔵太田家の通字は「資」であることから、資邦王とつながり、
太っている徳川家康は、頼信流の分家(上杉輝虎の子)の秀逸な家臣に助けられながら、
江戸に幕府を置き、征夷大将軍となる。
つまり、武蔵国に拠点をおき、武家の王となる。
したがって、徳川家康は松平東家であることが示されている。
因みに、「資邦王」は「すけくにおう」と読む。
かごめかごめの歌詞
かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる
夜明けの晩に 鶴と亀と滑った 後ろの正面だあれ?
考察
明智光秀肖像画所蔵の本徳寺の資料に記載されているのだが、
「後ろの正面誰」は日光東照宮から見て、真後ろは岸和田となり、
正体が明智光秀のことであるとの説がある。
この歌詞は猪◯問題を題材にした歌詞である事実が見えてくる。
「かごめかごめ」は「神具女」とあるので、高貴な雰囲気を持つ女性とある。
二度繰り返していることから、何人かの女官であることを指している。
ここから岩倉具視とのつながりの理由の一つも見えてくる。
「籠の中の鳥は」烏丸光広で、籠の中とは猪熊教利に誘惑され、秘密である様子。
「いついつ出やる」とはいつ猪熊と皆である行為を遂行するのか、
「夜明けの晩に」それは朝早くから晩まで及ぶこと。
「鶴と亀と滑った」鶴は鶴丸紋の烏丸光広で、亀は猪熊教利となり、
淫らな行為が明らかになり、猪熊教利は逃亡し斬刑にされた意。
「後ろの正面誰」とは、猪熊教利の正体(出自)は、本徳寺所蔵の明智光秀肖像画にある。
亀が猪熊教利とされるのは、江戸時代後期の陶工「亀熊」から関連づけられている。
京都出身で染付け研究のために肥前有田(佐賀県)に足を運び、
長崎で藍鉱石を日向(宮崎県)で釉料の灰をもとめ、その法を師につたえる。
京都染付けを創始するのに貢献した。
亀熊の本名は「宮田熊吉」で二代亀屋六兵衛(亀六)とある。
日向で猪熊教利は召し取られたとある上、
惟任日向守光秀とかかるため、亀は「猪熊教利」であることを示す。
十三重石塔に刻まれた名称の意味
注目する点は中央にある浦野姓
・浦野駒𠮷(向かって右側)
・浦野徳太郎(向かって左側)
これを対比すれば、
・烏丸光広 松平京家烏丸流嫡流[頼信流](向かって右側)
・裏松忠清 松平京家烏丸流支流[頼信流](向かって左側)
更に置き換え、
・松田頼信 三条輝照 左大臣(石塔から見て左側)
梵字タラーク 大勢至菩薩 知恵の光をもって全てを照らし、無上の力を得させる菩薩。
・徳川家康 徳川秀忠 右大臣(石塔から見て右側)
梵字サク 虚空蔵菩薩 虚空とは事実にもとづかないこと。
また「向かって右側」は、駒𠮷の「𠮷」の下の辺が長いことから右大臣の織田信長を指す。
その場合は、自ずと「向かって左側」の浦野徳太郎は松田頼信を指す。
下の辺がという言葉で本能寺の変とかけているのではないか。
然すれば、松田頼信と織田信長はつながり、「𠮷」である漢字から豊臣秀吉にもつながる。
これらの内容からクロスした関連付けであることが読み解ける。
・織田信長 右大臣(向かって右側)
・松田頼信 左大臣(向かって左側)
鹿苑寺流庶流の桜井家の家紋が五七桐紋であることから、
豊臣秀吉が行った「醍醐の花見」が連想され、
同じ鹿苑寺流庶流の醍醐家の極官である左大臣が、
クロスの観点から松田頼信の官職である事実が見えてくる。
最後に、二つある浦野姓から「裏の性」に変わり、次の人物を表す。
・烏丸光広(墓所法雲院 右京区)賛同者
・猪熊教利(左近衛少将) 首謀者
つまり、猪◯問題の当事者で、猪熊教利は徳川家康や徳川秀忠と同じ出自となる。
近衛信尋の正体
近衛家のwiki資料の系図を見てみると19代の信尋(二宮)とある。
何やら二宮金治郎と関連付けされており、
(二宮)を目印に信尋が誤識し記されている。
次の点から誤識である事実が見えてくる。
・信尋は後陽成天皇からの養子とある上、幼名は二宮でなく、
四宮であり、二宮は信尋の資料には見当たらない。
・近衛信尋は、後陽成天皇(wiki資料)の子女欄の上から三番目にあるので
少なくとも二宮ではない。
・別資料によると後陽成天皇の四宮が後水尾天皇で、近衛信尋らしきものは見当たらない。
では近衛信尋はどこからの養子であるかは、松平京家からの出自であることが、>
祖を示す関連された事柄から見えてくる。
後陽成天皇は猪◯事件の時の天皇であり、それに関与し、
猪◯事件と出自偽装問題を指摘するため、養父を後陽成天皇としていると読み解ける。
「徳太郎」と「治」は「二宮金治郎」を暗示し、「近衛信尋」を指している。
額(学)
額を示しているのは頼直流の冨樫氏の家祖「泰家」で、
系図の泰家には(額田)とある。
(武家家伝_富樫氏参照資料)
冨樫氏の家祖を示すため、小出家の家紋の丸に額につながる。
そこから多くの絵師や画家を排出し、東京大学をはじめ、
多くの学校創設者などを排出する。
小出氏が和泉岸和田藩主から、
奈良松田家も岸和田市に第二の拠点を置き、至要たるに示している。
幸の通字
奈良松田家の系図にある「幸」は真田信幸(信之)を示し、
真田信幸の官位は伊豆守、侍従である。
これは松平信綱の資料にある官位と同じであり、
他に、親族に「真」の字が見え、至輝の元名「実」と合わせ、
松田幸右衛門信実は松平信綱であることを表している。
松平信綱が奈良松田家の先祖であることを示すと共に、
同じ清華家である家祖の広幡忠幸を指し、
松平信綱の実子であることも併せて示されている。
祖母は広島出身であることからも広幡家を指しており、
広島は旧国名の安芸国で「松平信綱」から「三条輝照」
につながることも十三重石塔と合わせ示している。
追加として、三条西家の通字は「公」と「実」と「季」である上、
三条西家の極官が内大臣。
「広幡忠幸(広幡家)」の極官が「内大臣」で「忠」の字から、
信綱から大河内と岸和田市にある本徳寺の西家である明智光秀肖像画と合わせ、
「徳川秀忠」をも表す。
極官を指している理由は季節の春にあたる「ハル」こと「極子」から窺える。
岡寺十三重石塔の秋は紅葉から春は石楠花と蛙の鳴き声とつながり、
三条輝照から大河内輝声を表していることが明白となる。
十三重石塔の裏側には梵字のアンがあり、その先には春になると石楠花が咲き乱れる。
シャクナゲは無鱗片シャクナゲ節の総称であることから「無鄰菴」が導き出される。
そして、「鱗」左から「鄰」右と変わることからクロスを表し、
南家(京家)の右隣の東家、祖は四条流(魚名流)であった右大臣の徳川秀忠を示す。
大久保利通
大久保利通を導き出すには、次の京家出身の大久保氏を挙げる。
大久保氏 家祖宇津忠茂 三河国額田郡上和田の大久保氏の支流
前述を踏まえ、三河、額と和田があることから大久保氏を指し、
その家系にある大久保忠隣により無鄰菴にかけ、
広島の安芸国の毛利氏と解き、
幸四郎から彦四郎頼通で大久保利通が導き出される。
また、頼信流の会津松平氏の祖の保科正之から、
近しい大河内松平宗家の通字が「正」であるため、
「保」と関連付けされ「大久保」を指し、保科正之の最終官位が「左近衛権中将兼肥後守」、
幕府官職は「江戸幕府大政参与」であることから、
松田宗家は太政大臣と左大臣を兼ねていた意図が重ねて読み取れる。
正之の幼少名は幸松丸であり、奈良松田家は「幸」で紐づけている。
誕生日
至輝(実)は、十五歳まで両親に誕生日をお祝いされ、
誕生日に欲しいものだけは親に伝えていた。
十五とは、松田頼盛から数えて十五代が松平信綱である。
至輝の元名が「実」から松平信綱は松田信実であることを表すためであり、
全ては、祖を示すためであることから、
十六歳以降は「誕生日おめでとう」の声かけすら皆無である。
元を辿れば、初めから家族でない。
祖を示す関連性の主要の位置付けにある「四」と「三」の根源は、
今川国氏の誕生を指している。
先代の諱に「守」が含まれることからそれも兼ねて
松田頼盛は今川国氏である真実をも示す。
今川国氏の誕生日は一二四三年であることから、
松田家一門の系図から順に一は松田頼盛。二は頼直と頼行。四は秀頼、頼邦、頼貞、秀経。三は三番目の系統頼貞の流れが宗家であることを示している。
大河内松平家の家祖を輝綱にしたのは山科家と合わすためでもあるが、
子の輝綱を家祖とすることで、少なくとも四系統よりは後に、
「三条」を号された証となるため、明確にする理由も挙げられる。
両親は重ねて、三者面談などの学校行事を中学校までは母親で、高校から父親と交代した。
十五歳までは母親で信綱、十六歳から父親で輝綱あることを訴えかけていたと考える。
小学校六年間、中学校三年間、母親と父親が交代することにより、
信興が三番目の系統であることから、鹿苑寺流を表していると思える。
母親に投げ捨てられるように交代したので、子供ながら傷ついた記憶はある。
今思えばそれが本心である事実が明白に虚しくもある。
無論、三者面談の内容も、その後に親から何か言われた記憶も何もない。
親は子を育てることを教えられていない上、
何かに取り憑かれていたのであろう。
その心は、異常な家庭環境にあったと推測できる。
和田惟政と明智光秀
先ず、家系図に五番目の実子として「義明」があることに留意する。
第二の奈良松田家の拠点は、岸和田市。
そこから和田惟政を拾い、明智光秀の境遇が似ていることから、
岸和田の「和田」で奈良松田家は関連付けをしている。
その境遇とは、室町幕府十四代将軍足利義輝、十五代将軍足利義昭に仕えながら、
織田信長の家臣という立場が同じことであること。
近江国甲賀に拠点を置いている点は明智光秀も坂本城を居城としている点と重なる。
義昭が上洛する際の記述で「義昭を奈良から伊賀を経由して甲賀に脱出させ」
奈良という関連性も示している。
前記にあるように明智光秀の肖像画が所蔵される本徳寺は岸和田市である。
このような類似性から岸和田の地に、明智光秀の長男明智光慶が
本徳寺を開基したのでないか。
宗家も何かしら関与している点も想像できる。
和田惟政の誕生が享禄三年(1530)であることから、
先の項目を踏まえれば、三条輝照を示していることが読み取れる。
享禄三年の「三」、誕生の「生(条)」、足利義輝の「輝」、
足利義昭の「昭(照)」で「三条輝照」となる。
誕生享禄三年をそのままだと、「条三」になるが、それを「三条」にするには、
幸次郎から「こうじろう」で、「こうし」が隠れていることから、
高氏(こうし)の家祖重氏を指し、足利氏執事であることから、
前述にある足利義輝や義昭と関連性を持たし、重氏は氏重の上下が逆にあることから
誕生享禄三年を逆からと考え、「三条」となる。
五番目の実子が「義明」で室町幕府十五代将軍足利義昭から引き算をし、
十五から五引き「十」が残る、それを留意し次の項目に移る。
類似性
奈良松田家の家系図にある、「マサヲ」は女性の名前であることから、
「マサヨ」と読ませない主旨が窺え、ここに類似性が生まれる。
十三重石塔では、「じゅうさんじゅうせきとう」でカタカナに変え、
「ジュウサンジュウセキトウ」、三条をカタカナで「サンジョウ」で、
「ヨ」を「ヲ」比べると「ヲ」は下に一本足りないことから、
「ヨ」を強調し、「ュ」が「ョ」に変わることを暗示している。
それ故、「ジョウサンジョウ」となる。
よって、「上三条」になり、転法輪三条家より上の「松平三条家」が現れる。
「マサヲ」は大久保利通の項目でも述べた、大久保忠世の関連性が見られ、
徳太郎と合わせ、徳川秀忠も表す。
「十」は、明智光秀の十兵衛と大久保忠世の新十郎、
大久保利通は、「維新の三傑」でもあるが「維新の十傑」である。
十河氏の家祖の吉保からも大久保利通を指している。
以上踏まえれば、「三傑」は旧字の「三條」に見えてくる。
そして、新十郎から新字の「三条」になる。
維新の三傑は次の人物で、
西郷隆盛(薩摩藩)号南州
大久保利通(薩摩藩)号甲東
木戸孝允(長州藩)号松菊
少なくとも、西家、南家、大久保利通が輝照の代用である甲東からの東家、
家系図に菊松があることから上下逆であることと戸田家を紐づけている。
大学と猪◯事件を示す
幸太郎代で岸和田に呉服店を開店していることから、
伊藤圭介は町医者の西山玄道の次男として名古屋呉服町に生まれ、
先覚者の筆頭に名古屋藩に意見具申し、仮病院・仮学校を設立。
これが名古屋大学の「創基」となり、祖の東京大学や京都大学を暗示している。
町医者という点や「雄しべ」「雌しべ」「花粉」の言葉を作ったことから、
猪◯事件に結びつけている。
また、第二十三代松田宗家伝承者矢野玄道を示している。
後松田家
十三重石塔
岡寺
山号 東光山
院号 真珠院
寺名 龍蓋寺
宗旨 新義真言宗
宗派 真言宗豊山派
寺紋 上り藤
輪違い
創建年 七世紀末頃
開山 伝・義淵
中興 法住
所在地 奈良県高市郡明日香村岡八〇六
名称について
「東光山 真珠院 龍蓋寺」であるが、
古来の土地の名から「飛鳥の岡にある寺」から
岡寺」と親しみを込めて呼ばれその名で知られている。
十三重石塔とは
岡寺の龍蓋池の東側の山麓にある十三重石塔は、大正時代に、松田徳太郎を筆頭に寄進された石塔である。
石塔の大きさは、鹿苑寺流に因み三十三尺と思われ、現在の価格を元にして、調べたところ推定一億二千万。
これは素材として、日本の最高級の庵治石の細目を使用した場合であるが祖を示す事柄から、庵治石を使用したことが読み取れる。
少し安価のものとして庵治中目があるが、写真から窺えるのは「庵治細目」であると思われる。
市場の算出は、「庵治細目」で八寸の墓石を作成した場合の三百万から導き出し、加工や施工費などを考慮した価格帯である。
近江和田氏が摂津国半国守護であることから、半分を治めるので、徳太郎は半分の費用を収めた痕跡が見え、至輝に物語る。
十三とは諸説あるが、古代中国の「五行思想」に由来する説がある。
五行思想とは、万物は火・水・木・金・土(七曜の命令)の五種の元素から成り立つ思想で、
骨に通じ白色を意味する「金」は、数字で表すと四と九にあたるため墓所にふさわしいとされる。
五行は自然現象の四季の変化を観察し抽象化された、自然現象、政治体制、占い、医療などの様々な分野の根本となる性質の周期や相互作用などを説明する五つの概念。
五つの元素は単に基本要素だけはなく、変化中における状態、運動、過程という捉え方もされる。
木(もく)
「春」の象徴で、木の花や葉が幹の上を覆っている立木が元となり、
樹木の成長・発育する様子を表す。
火(か)
「夏」の象徴で、光り煇く炎が元となり、火のような灼熱の性質を表す。
土(ど)
季節の変わり目「土用」の象徴で、植物の芽が地中から発芽する様子が元となり、
万物を育成・保護する性質を表す。
金(ごん/こん)
「秋」の象徴で、土中に光り煇く鉱物・金属が元となり、
金属のように冷徹・堅固・確実な性質を表す。
水(すい)
「冬」の象徴で、泉から涌き出て流れる水が元となり、これを命の泉と考え、
胎内と霊性を兼ね備える性質を表す。
この石塔は徳太郎筆頭に宗家の墓所として建立された可能性を示唆し、
以上から岡寺の四季を訴え、墓所を意味する「金」の概念である「秋」の象徴のその主旨から松田宗家歴代へと流れ重きを置く。
五つの元素は変化中における状態などの点において、
秋から春の季節の変化や次の梵字にある千手観音であることも重ねて訴えている。
奈良松田家の項目で述べた、秋の紅葉から春の石楠花と蛙の鳴き声。
秋の三条輝照から春の大河内輝声へ、
金は鹿苑寺流で三条輝照を主として表し、
十三重石塔に刻まれた梵字は歴代宗家の墓石である真意を伝えている。
梵字
その石塔の四方面に三段に連なる各約六十名で、計約二百四十名程の寄進者の名前が石塔に刻まれ、
正面の上段に、十ある名前の中に浦野姓が中央に二つあり、その二つの内、左側に「浦野徳太郎」と名前が刻まれている。
その石塔の四方面にそれぞれ梵字が刻まれ、梵字の意味は次の通りである。
※石塔から見た位置関係
正面
𑖮𑖿𑖨𑖱𑖾キリーク
阿弥陀如来
西方の極楽浄土の教主で、生あるものすべてを救う如来。
千手観音菩薩
千の慈眼と慈手で一切の悩みを救い、願い事をすべて叶えてくれるという観音様。
左側
𑖀𑖾サク
勢至菩薩
智慧の光をもってあまねくいっさいを照らし、無上の力を得させるという菩薩。
右側
𑖝𑖿𑖨𑖯𑖾タラーク
虚空蔵菩薩
宇宙のすべてのものを含み、虚空のように無量の福徳・智慧を具え、
これをつねに衆生に与えて諸願を成就させる菩薩。
宝生如来
大乗仏教における信仰対象である如来の一尊。
唯識思想における仏の悟りの境地のひとつ「平等性智」を具現化したもの。
裏側
𑖀𑖼アン
普賢菩薩
優れた智慧で現世のあらゆる場所で人々を救済する菩薩。
文殊菩薩
諸仏の智慧をつかさどる菩薩。
梵字の意味はこのようにあるが、
松田宗家が提唱することは、自然の流れの中で出来た、頂点となる主を中心に、
その周りに、力あるもの、知恵あるものの支えによりこの世は形成され、
それにより平和な世が築かれ、保たれ、現代に至ることを示している。
阿弥陀如来は生あるものすべてを救う如来、天皇と重ね、
その周りには、宗家の歴代、
そこから子々孫々と繁栄する松田家の出自の者達。
この構図は、松田宗家に限らず、子々孫々と代々受け継がれて行く、
この世の全ての人々であることを表している。
十三重石塔は、奈良松田家の墓の代替であると同時に、
宗家の魂を宿した(思いが凝縮された)松田宗家の墓石であり、
この世の平和を願う石塔である。
勢至菩薩は、阿弥陀三尊から、
阿弥陀如来を中尊とし、向かって右側に置かれる右脇侍。
阿弥陀如来から見たら左側となる。
勢至菩薩は、上杉謙信に重ね、
「輝」の通字としていることから、
宗家の「左大臣」と言う立場に重ねている。
虚空蔵菩薩は、右大臣とある織田信長と重ね、
無量の福徳と知恵は、森羅万象にあるこの世の平和を願うことに通じ、
幸せをもたらす宗家の思想。
普賢菩薩は、宗家の立ち位置を示し、
優れた智慧で救済の支援をすることにより得た人々の幸せが、
宗家の幸せであることの信念であると考える。
千手観音菩薩は、
阿弥陀三尊の左脇侍にある観音菩薩で、観音菩薩の中でも、
キリークの梵字は千手観音菩薩であり、千の慈眼と慈手で一切の悩みを救い、
願い事をすべて叶えてくれるという観音様といわれていることから、
松田宗家の歴代と重ね合わせているのではないかと考える。
それに加えて、千手観音菩薩は、観音菩薩の変化身と考えられていることから、
キリークの梵字は石塔の正面、つまり、表にあり、観音菩薩は、裏の公家の立場である松田宗家に対し、
千手観音菩薩は、その変化後の毛利元就などの表の顔、武家(分家後)である二重の家族を示している。
無鄰菴に紐づく刻まれた名称
石塔の名称の中央にある二つの浦野姓ついて、梵字は石塔の一部と考えるので、石塔から見た位置関係に対し、
寄進者の文字を読むのは、読む人の立場から考えるので、向かって
右側 浦野駒吉 → 辰野金吾 → 烏丸光広
左側 浦野徳太郎 → 永見徳太郎 → 猪熊教利
とあるので、麻雀の席の配置から、左側は南家、右側は東家。
つまり、猪熊教利の最終家名の「生駒矢柄家」は東家であることを示している。
また浦野姓は、猪◯問題の裏の性ともかかっている。
重ねて、浦野駒吉は中央に浦野が二つあることから駒は将棋の金将を意味し、龍蓋池と合わせ、辰野金吾示す。
浦は水ぎわの地であることから龍蓋池を指し、「辰」が浦の代わりに入る。
「野」はそのままで、駒は「金」、五番目で「吾」、「辰野金吾」となる。
浦野徳太郎は誕生日が同じである永見徳太郎を示す。
将棋の「将」は、松田宗家歴代の人物はどのような立場であったかを表している。
「将」とは、軍隊をひきい指揮する人。
つまり、将棋で例えれば「金将」で王を守る要となる立ち位置。
五は「囲碁」ともかけている。
それから駒は、裏の性から猪熊教利の後継である生駒矢柄家ともかかる。
(十三重石塔の浦野徳太郎と刻まれた画像 → )
寺紋
次の家紋は岡寺の新義真言宗の一つである。
輪違い
この家紋に同じ家紋や類似した家紋が次にある。
高重氏 足利氏執事
中井正清 大工(幕府の建築事業)
脇坂安治 臨松院(法号)
「輪違い」の家紋は二重にある戸田家と吉野家の家族を示している。
高重氏は戸田氏重。
中井正清は建築業事業に就いている内容から吉野作造の長女である建築家の土浦信子と重ねているため、吉野作造である事実。
脇坂安治の法号の臨松院から浦野徳太郎は松田徳太郎。
つまり、浦野徳太郎、戸田氏重、吉野作造、松田徳太郎は同じ人物である事実を示す。
法号は至輝の別名皇霞京から導かれる。
飛鳥寺西方遺跡
飛鳥寺西方遺跡は奈良県高市郡明日香村にある、
飛鳥時代の宮殿関連施設と考えられる遺跡。
『日本書紀』には「飛鳥寺の西」「大槻の樹の下」など記される神聖視されていた
槻(けやき)を中心とした「槻木の広場」があったと考えられている。
槻の位置に関して所在は明らかにはされていないが、次に絞られたとされている。
・砂利敷欠落遺構
2012年(平成24年)の調査で発見された砂利敷の欠落で、
6mほどの規模で飛鳥寺西門の西正面41.5mの位置にある。
遺構の四方に樹根状に欠落が伸びており、人為的に掘られたものではないとされる。
近くには井戸の跡と思われる円形の欠落もあった。
『古事記』などの神話世界では聖樹のそばには泉や井戸が対になって存在するとされる。
・入鹿の首塚
入鹿の首塚と言われる五輪塔は飛鳥寺西門から西へ23mほどの位置にある。
五輪塔は鎌倉末期から南北朝時代に築かれたと考えられ、詳細は不明。
(Wiki資料参照)
岡寺の所在地からこれらも祖を示す内容を補足する形で重ねて関連性を示している。
六観音
六観音は、観音菩薩の変化身を表し、六道輪廻の思想に基づき、
六種の観音が六道に迷う衆生を救う考えから生まれたものとあり、
六道の観音様の摂化は宗派により一部異なり、岡寺真言宗は次の通りである。
地獄道 聖観音
餓鬼道 千手観音
修羅道 十一面観音
畜生道 馬頭観音
人道 准胝観音
天道 如意輪観音
阿弥陀如来は天皇を表し、そのほかの如来と菩薩、六観音(菩薩)は宗家の歴代を表す。
阿弥陀如来[天皇] 宝生如来
観音菩薩(六観音) 大勢至菩薩 普賢菩薩 虚空蔵菩薩 文殊菩薩
[毛利元就][武田信玄][上杉謙信][織田信長][伊達政宗][結城秀康]
大勢至菩薩は上杉謙信を表していることは確かではあるが、
どの人物がどの菩薩であるかは特に該当しないものとする。
岡寺へ訪れる経緯
岡寺は、徳太郎の代の本籍があるところから推測し、
いずれ訪れようと考えていた地である。
石楠花が見頃を迎え、それに合わせ、祈る想いで徳太郎のお墓があるのではないかと思い訪れた場所である。
住職の歴代墓所はあったが、一般的な墓地は見当たらなかったので取り越し苦労と思うた。
また、十三重石塔に松田徳太郎の名前がないかと探すが、名字を意識しすぎて一度目は見つからないまま見限ろうと脳裏をかすめ、
期待もしない上で再度見直した時に正面の上部に浦野徳太郎と名前があり、
一旦は困惑したが、冷静に考えたところ住職に十三重石塔のことを尋ね、
大正時代に寄進されたものとご教示いただき、これは松田徳太郎だと断定できた。
石塔に刻まれている梵字の意味から、松田宗家の墓代わりであると示されている。
十三重石塔は、戦国時代の歴代六名を弔う墓石として建てられたものであろうと考える。
そこには前に述べた、梵字の内容から所在地にある明日香村から未来の平和の願いが込められている。
石塔が建てられた大正七年(1918)は、第一次世界大戦の終戦の年でもあるので、
全ての思いがここに集約されていると私は確信する。
松田宗家の聖地、菩提寺であると共に、世界平和を願う石塔。
つまり、「菩提寺兼世界平和を願う石塔」。
三条家
家 紋 三条蝶
替 紋 十二葉菊
本 姓 松平京家鹿苑寺流嫡流
始 祖 三条正永(松平信綱)
家 祖 三条輝綱(松平輝綱)
中 興 三条至輝(皇霞京)
通 字 至
別 称 松田宗家
種 別 公家(清華家) 華族(公爵)
極 官 太政大臣兼左大臣
出身地 埼玉県北足立郡伊奈町小室
根拠地 東京都、京都府、大阪府
著 名 高階栄子、松平信綱、久留島義太、福澤諭吉、
大河内輝声、上野英三郎、吉野作造
分 家 近衛、一条、醍醐、広幡、七条、伏原、鷹司、桜井、
今川、毛利、久留島、福澤、大河内、上野、吉野など
縁 家 天皇家、転法輪三条家、徳大寺家、戸田家など
菩提寺 松平氏:平林寺 松田宗家:岡寺
寄進物 松田徳太郎:十三重石塔(岡寺)
商用紋 扇揚羽蝶、花器章、三つ引き
象徴色 純白、銀鼠、承和色
伝統色 象牙色、深紫、真紅、水色
紋 様 三条七宝
三条家
系図
松平京家鹿苑寺流
桓武天皇 ─ 葛原親王 ─ 高見王
┌─────────────────────┘
│桓武平氏祖
└ 平高望 ─ 国香 ─ 貞盛
┌─────────────────┘
│
└ 平維衡 ─ 正度 ─ 維盛 ─ 貞度 ─ 盛房 ─ 業房
┌─────────────────────────────────────┘
│山科家祖
└ 山科教成 ─ 教房 ─ 教頼 ─ 教定
┌─────────────────────────┘
│松田家祖
└ 松田頼盛 ─ 頼直 ─ 頼貞 ─ 頼近 ─ 頼源 ─ 頼仲
┌──────────────────────────────────────┘
│
└─── 善通 ─ 頼済 ─ 信頼 ─ 家頼 ─ 頼信 ─ 達頼
┌──────────────────────────────────────┘
│
└─── 頼勝 ─ 頼通
┌───────────┘
│松平三条家始祖
└ 三条正永 ─ 輝綱 ─ 信輝 ─ 信祝 ─ 輝高 ─ 輝和
┌──────────────────────────────────────┘
│
└─── 輝延 ─ 輝承 ─ 輝徳 ─ 輝充 ─ 輝聴 ─ 輝照
┌──────────────────────────────────────┘
│
└─── 輝耡 ─ 輝成 ─ 輝治 ─ 輝政
┌─────────────────────────┘
│松平三条家中興の祖
└─── 至輝
輝耡 = 氏秀
てるなり
輝成 = 氏重
藤原北家閑院流(旧本姓)
藤原氏始祖
藤原鎌足 ─ 不比等 ─ 房前 ─ 真楯呂 ─ 内麻呂 ─ 冬嗣
┌───────────────────────────────────────┘
│
└─── 良房 ─ 基経 ─ 忠平 ─ 師輔
┌─────────────────────────┘
│閑院流祖
└ 藤原公季 ─ 実成 ─ 公成 ─ 実季 ─ 公実
┌───────────────────────────────┘
│徳大寺家祖
└ 徳大寺実能 ─ 公親
┌────────────┘
│山科家始祖
└ 山科実教 ─ 教成 ─ 教房 ─ 教頼 ─ 教定
┌───────────────────────────────┘
│松田家祖
└ 松田頼盛 ─ 頼直 ─ 頼貞 ─ 頼近 ─ 頼源 ─ 頼仲
┌──────────────────────────────────────┘
│
└─── 善通 ─ 頼済 ─ 信頼 ─ 家頼 ─ 頼信 ─ 達頼
┌──────────────────────────────────────┘
│
└─── 頼勝 ─ 頼通
┌───────────┘
│松平三条家始祖
└ 三条正永 ─ 輝綱 ─ 信輝 ─ 信祝 ─ 輝高 ─ 輝和
┌──────────────────────────────────────┘
│
└─── 輝延 ─ 輝承 ─ 輝徳 ─ 輝充 ─ 輝聴 ─ 輝照
┌──────────────────────────────────────┘
│
└─── 輝耡 ─ 輝成 ─ 輝治 ─ 輝政
┌─────────────────────────┘
│松平三条家中興の祖
└─── 至輝
三条家
家紋
三条家
家紋
三条家の定紋は「三条蝶」。
三条家ブランドの定紋は「扇揚羽蝶」。
蝶紋は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、
伊勢平氏である清盛流平家の家紋と、
公家の平氏の家紋として主に用いられ、
蝶紋と言えば、平家の家紋と世に定着する。
祖の意向を司ると、原石は伊勢平氏であることを誇りに受け継がれ、
長期にわたり、重きを置いた高崎藩大河内松平家と
我が流派の直系である家頼流の松田家と直接つながる、
松田幸右衛門信実こと、松平伊豆守信綱を重要視し家紋を定める。
松平伊豆守信綱の定紋は、出世したことに祝して、
「丸に臥蝶に十六菊」から「三つ反り扇」へと変わる。
松平信綱の三つ反り扇紋の経緯を重んじれば、
「蝶」と「扇」を題材とした「三条蝶」は、責務と言える。
蝶は伊勢平氏を象徴し、
扇は、大河内松平家と信綱と至輝を象徴する。
揚羽蝶斑点の数が三が二つで六、つまり、鹿苑寺流を表し、
二と二は、桓武平氏流松田家の家紋丸に二本松と信綱の二男の意。
羽の数は、頼貞流の四番目松平京家を意味する。
「扇揚羽蝶」
「皇雨龍」
「三条唐花」
「三条花角」
「花器章」
「三つ引き」
「三条蝶」
「十二葉菊」
家紋は次のように定める。
商用
対象 三条ブランド 皇霞京
和 定紋「扇揚羽蝶」 副紋「皇雨龍」
飾紋「三条唐花」「三条花角」「十二葉菊」
洋 定紋「花器章」 替紋「(竪)三つ引き」
私用
対象 三条家
和 定紋「三条蝶」 替紋「十二葉菊」
洋 定紋「花器章」
花器章
花器章は、「三条[Sanjo]」のローマ字の頭文字と「皇[Sumeragi]」のローマ字の頭文字を
鏡面反射した構図。つまり、二重にある名字の真実は一つという意味。
鏡は鏡新明智流の桃井春蔵を示すと共に、明智光秀を表す。
三条家
七宝紋様
雪明
皇雨龍
扇揚羽蝶
三条蝶
三条家
家名
初めに、祖の「大河内」と言う家名は、
松平四家にある家々の名称や馴れ初めを示すため、
関連した事柄から、不可避的に選んだ家名と読み取ることができる。
特に、松平京家流北畠家への関連された事柄から窺え、
北畠家の分家として、既に「大河内」は存在する点にそれを証明する。
戸田氏重が明治時代に名字を「松田」に復した点においても、
松田家から様々な分家による家名が誕生していることや、
祖松田家からの分家となる松平北家流の備前の松田家は、
直系の祖にあたる松平京家流宇喜多家に、滅亡へと追いやられている。
そのような経緯から、「松田」に復することは、道理に反することであり、
祖を示すことに重きを置いた、不自然な家名と言える。
では、我が松平京家苑寺流の大河内松平家、真の家名を思索するとしてみよう。
直系の祖である信頼系松田家家頼流から
松平伊豆守家(吉田藩大河内松平家)へと続く官職が、
検非違使別当であり、大理卿家とされ、松平京家流にあたる。
別当は同義で長官に当たり、カミと呼ぶ。カミを「上」の字に宛て、果ての「神」。
また、血筋は桓武平氏(伊勢平氏維盛流)の桓武天皇。
家祖の松田頼盛の娘千手姫は、三条家へ養子となり、
皇室に嫁ぎ、後深草天皇の第七皇子久明親王の実母。
このことを大切にし、後世(至輝)へと伝承されている。
家頼流は、頼直の三男から頼信の三男で、主として、三の倍数になる三と六と九を主題として家紋を作成している。
そして、鹿苑寺は室町幕府第三代征夷大将軍足利義満が開祖となる別荘。
それらを踏まえ、「三条」という名称に重きをおき、
我が国において、「三條」と言う地名を挙げれば、次にある。
「新潟県新潟市江南区三條岡」は越後上杉家及び家臣
「山梨県中央市上三條」は家頼流の分かれた甲斐武田家及びその家臣
「山梨県中央市下三條」は頼貞から信頼までに分かれた甲斐武田家臣
「兵庫県南あわじ市市三條」は頼信流の雑賀孫市
「南」は南家である京家の意
「中央」は松田七流の四番目頼貞流の松平京家の意
これらに共通するのは、上杉家、柿崎家、直江家、武田家、馬場家、真田家、雑賀家…松平京家の家頼嫡流。
「三條」の「條」は旧字で、「旧」は「九」。
つまり、松田秀頼流から数え、嫡流である系統の九番目にあたる高崎藩大河内松平家を指す。
以上から「三條」は、高崎藩大河内松平家の真の家名であると考える。
したがって、圧倒的な勝率から、軍神とも呼ばれる
大理卿家時代に分家した「上杉謙信」に因み、
「新潟県新潟市江南区三條岡」から「三條」を賜ることが、
正しき我が家名と天は仰せつかる。
「條」を旧字から新字に変え、
我が家名を「三条(さんじょう)」である意図が読み解ける。
この真意は、至輝が祖を示す関連された一部の事柄から、推理したに過ぎない。
真実は、端然と他にある。
三条
「十」へのこだわりは「三条」は十画であることから一つの理由として挙げられ、三画と七画で
さらに「条」分割すればつくりは「条の上部分」三画、「条の下部分:木」四画となる。
三画と三画で六角、これは家頼流と鹿苑寺流で、四画とは四条流と四つの流派に分かれる。
七画は羽林家の北斗七星である。
また「条」は、旧漢字で「條」であるからつくりは「攸」と「木」から成り立つ。
漢字の音符「攸ユウ」の解字、金文は、
「イ(人)+ 三つの点(水のたれるさま)+攴ボク(木の枝でたたく)」の会意。
人の背中に水をかけ、手にもった枝葉でたたいて身を洗い清めること。
篆文は、三つの点⇒タテの棒線に変化し、さらに現代字は、
攴⇒攵に変化した攸になった。身を洗い清める意で、悠の原字。
しかし、本来の意味は、悠と修が受け持つので、攸は、ここに・
~のところ、などの助字として使われる。
意味は(1)ここに。 (2)ところ(所)。「往く攸(ところ)有り」
(3)ゆったりと。(悠)。「攸攸ユウユウ」(①はるかなさま。②のびやかなさま)
心象
「身を清める」(攸・悠・修・条・滌)
「枝・すじ(條)」(篠・脩・絛)
音の変化
ユウ:攸・悠 シュウ:修・脩 ショウ:篠 ジョウ:条・滌 トウ:絛
これらから関連された事柄が見えてくる。
山科教房(松田頼盛) ─ 教兼 ─ 教広
└ 教音
三条の発祥の地
三条の発祥の地は、次の地名にある。
京都府京都市中京区石橋町三条通寺町東入
京都府京都市中京区石橋町三条通新京極東入
京都府京都市中京区石橋町三条通河原町西入
京都府京都市中京区石橋町三条通新京極西入
それを次の新潟の地名と結びつけている。
新潟県三条市
三条を示すもの
三条の示す松平四家出自の家系。
松平京家頼済流
さえぐさし
三枝氏 家祖 守綱 著名な人物 三枝虎吉
三河天野氏 家祖 景貞 著名な人物 天野虎景/藤秀
家紋が丸に三階松と三階松に三日月。
全体を見定め天の川が見えてくると、出自の全体の流れ、そして、「条」は訓読みで「えだ」と読むことから三条の家名である事実が自ずと見えてくる。
三条家
氏の定
氏の追加の覚え書き
「氏」に代表される源平藤橘で知られる次に加え、
陰の「氏」として光に変え追記する。
「源氏」
「平氏」
「藤原氏」
「橘氏」
「惟任氏」
「豊臣氏」
「松平氏」
日本の歴史に、
「松平氏」と言う陰の氏が既存していたことをここに記す。
読み方の例
源頼朝 (みなもと の よりとも) 源氏(げんじ)
平清盛 (たいら の きよもり) 平氏(へいし)
藤原道長 (ふじわら の みちなが)藤原氏(ふじわらし)
橘以長 (たちばな の もちなが) 橘氏(たちばなし)
惟任光秀 (これとう みつひで) 惟任氏(これとうし)
豊臣秀吉 (とよとみ ひでよし) 豊臣氏(とよとみし)
松平信綱 (まつだいら のぶつな) 松平氏(しょうへいし)
したがって真実は、
松平信綱は、豊臣秀吉と同じ、
氏と諱で表記されていたとになります。
ここから考えられることは、
松平信綱の名称に「大河内」という名が入っていないことから、
「大河内」は、信綱(松田宗家)の後継家名(名字)ではない意思表示の表れと見える。
平林寺にある、信綱の墓石に「大河内」と記されていないことからそれを証明する。
墓石には、「川越侍従松平伊豆守源信綱」とある。
大河内を己の正式な名字と主張するならば、「川越侍従大河内松平伊豆守源信綱」となる。
本姓にあたる「源氏」は偽りのため、
それに代わる本姓は「松平氏」。
よって、「川越侍従伊豆守松平信綱」は表に立つ表記であり、
陰の公家形式で記述すれば、
「太政大臣兼左大臣松平三条信綱」が真の名称となる。
また、松平輝貞の墓石には、
「高崎城主従四位下侍従兼右京大夫松平源朝臣大河内輝貞」とあるので、
松平源朝臣大河内輝貞は、松田宗家の系統ではないことを示す。
輝貞は公家形式の記述で、大河内家は公家であることを表し、
それと合わせて、宗家も公家であることを示す。
豊臣には朝臣がついてくるが、松平に朝臣の有無を問うと、
姓の朝臣は、八色の姓の第二位を表すのですが、
源平藤橘、豊臣も含め、全て朝臣であるが故に、不要(略称)とする。
戸田氏重もまた、祖を示すために已むを得ず、「松田」という名字に復し、
松田徳太郎の名称に変更したことが、関連された事柄から読み解くことができる。
松平北家流の備前松田氏と相模松田氏の存在が、
宮津市所収の松田氏系図と奈良松田家が連動し、それを証明する。
松平氏
松平氏とは、桓武天皇の流れを汲む伊勢平氏維盛流の血筋を元に、
松田維盛から始まる法的血族の藤原北家閑院流及び四条流が合わさった
血筋を表す同一血族の集団を「松平氏」と呼ぶ。
三条家
松平氏の成り立ち
松田家秀経流の明智光秀は、
天正三年坂本城主となってから四年後、織田信長の命により、
惟任日向守光秀と改名したとある。
「惟任」とは、朝廷から賜り受けた賜姓であり、
光秀の出自である松田家の伊勢平氏維盛流と藤原北家四条流(頼任)の本姓示す姓である。
次にあるのは、参考として明智光秀、松平信綱、豊臣秀吉の例を挙げる。
武家形式の記述
惟任日向守源光秀 → 明智日向守惟任光秀(真実)
松平伊豆守源信綱 → 三条伊豆守松平信綱(真実)
羽柴藤吉郎関白豊臣朝臣秀吉
三条和泉守松平至輝(仮)
公家形式の記述
従五位下日向守惟任明智光秀
従四位下侍従兼伊豆守松平三条信綱
従一位行関白兼太政大臣豊臣朝臣羽柴秀吉
和泉守松平三条至輝(仮)
現状の史実には明智は無くなり「惟任日向守光秀」の名称となる。
大河内松平家はそれと関連して、松平は惟任に宛てた姓、
このことから松平は家名として扱ってはいるが、大河内松平の「松平」は、
源平藤橘などにある「氏」、つまり本姓と考えられる。
松平もまた、史実に記載はないが、惟任と同じく、朝廷から賜り受けた賜姓であり、
豊臣氏と同種にあたる「氏」である。
従って、松平四家の中でも本姓に、松平氏とつく家系は、
江戸時代に将軍家から松平氏の姓を賜った家系を指すことになる。
例えば、外様大名では、
前田家、伊達家、毛利家、池田家、山内家、黒田家、蜂須賀家、島津家、浅野家、鍋島家
また次の家系も「松平氏」の本姓。
西家 久松松平家
京家 戸田松平家
京家 滝脇松平家
京家 桜井松平家
京家 藤井松平家
これらの一族は、大河内家と同じく、明治時代に松平から久松、
松平から戸田のように家名戻している。
松平が氏であることを認識している家系であることを示す。
「大河内松平」は江戸幕府期の称号であり、
「大河内」は宗家ではない分家の家名である。
信綱からの松田宗家の嫡流は松平氏で、
松田宗家の後継家名は「三条家」である。
つまり、
「旧家名 松田家」
「本姓 松平氏」
「新家名 三条家」
が本来あるべき名称の流れとなる。
三条家
名称表記について
当家名(名字)「三条」とする。
「三条」の家名は未来の本名とし、「松田」を通称とするが、
現段階での本名である「松田」を主として、使用する。
それぞれ、正式名称を「三条至輝(さんじょうゆきてる)」と称し、
通称を「松田実」とする。
「三条至輝」は本来通称であるが、
未来は正式名称として改名を目指す。
従って、改名するまでの個人事業主としての活動は、現状の本名を使用する。
「松田実」
前述であるように、最終的な名称は次の通りである。
正式名称「三条至輝」
別名「松平至輝」
別正式名称「松平三条至輝」
本姓「松平」(藤原北家閑院流 或いは 藤原北家四条流/伊勢平氏維盛流)
家名「三条」 諱「至輝」
尚、「大河内」は分家の家名のため、宗家の名称には含まれない。
松田宗家名称について
松田宗家
この名称は、松田家始祖の頼盛からの嫡流を指し、
現代当主まで、全ての歴代を示す総称。
松平三条家
この名称は、十五代信綱から奈良松田家、現代当主までを示す総称。
三条家
この名称は、松平三条家の松平を単に省略した三条家の総称。
例えば、三条家を指すときに、松田宗家や、
松平三条家と呼称しても間違いではない。
三条家は、転法輪三条家と松平三条家が混同するため、
松平三条家は転法輪三条家と区別するための呼称である。
本来ならば、臥蝶に十六菊の家紋に変わる、信綱の代で松平三条家となり、
松平が先に来るのは、公家形式での呼称となる。
事情により、朝廷から賜り受けた松平氏を称している。
至輝
哲学者
諱の由来
至輝の諱の由来は、三条実行にあり。
三条実行は、三条家の始祖であり、松田頼盛の娘千手姫は三条家に養子になり、その後、天皇家に嫁ぎ、天皇との間に生まれた第七皇子の明久親王が、
鎌倉幕府八代征夷大将軍に任じられた歴史があり、
祖は、武家である表の顔を持ち、武士の威厳を保つため、
主体は公家である真相や天皇家の縁を公にできず、
政治的中心の地位を担ってきた。
転法輪三条家の縁は、頼盛の兄弟である「山科教行」と紐づけるため、
松田頼行も含め、山科家が出自である事実を表している。
したがって、三条実行から「ゆき」の言葉を賜り、
また、天より「至」の字を賜り、
祖につなぐ意味も含め、
三条家元来の通字の「輝」と合わせ「至輝(ゆきてる)」と命名。
「ゆき」は「雪」であり、
我が祖の松田宗家は、雪華模様を題材にした家紋の意図から、
転法輪三条家の家格「清華家」を表し、三条実行を指す。
至輝は冬季の生まれでもあり、我が諱に相応しいと解釈する。
「至」の字は行き着く果ての意であり、
計らずも、誕辰和色(誕生色)である深紫の別名、至極色に因縁し、
恐れ多くも、十三重石塔にある大勢至菩薩の「至」でもあることに付随する。
哲学者としての顔
哲学者としての学問は、仏教をほんの少しばかり嗜んだ程度で、
全ては経験から得られた独自の悟りの世界である。
学問とは、経験の中で起きた現象などを伝えている目的で言語化しているため、
「百聞は一見にしかず」の言葉が示すように、経験より優るものない。
ウクライナ戦争
ウクライナ戦争は、ロシアが一方的に悪いように見えるが、人により受け取り方
や、脅威に感じる度合いなど様々である。
それら両国の価値観の違いにより、すれ違いが生じ、最終手段として脅威を無く
そうと戦争に発展した例であると考える。
無論、国際の秩序を乱しているロシアに全ての非はあるが、何故そのように侵
攻しなければならい状況にまで至った道理を考えるも和解への道筋と捉える。
長引けば長引くほど被害が大きくなり、双方により深く亀裂が入れば憎悪は肥大
し、和解は困難となり手立てはなくなってゆく。
それ故、私は祈る思いであの和歌を詠んだものである。
隣国である以上、未来永劫隣国同志である。
住居による隣居同士である場合においても騒音などには気配りはするの同じで、
互いに配慮し合わなければらない運命に置かれる関係であるのは確かである。
私はどちらの味方のでもなく、平和の見方である。
裏を返せば両国の味方であり、双方の国の目線で物事を考え中立な立場でなければ
和解の説得はできない。
中立な立場とは、物事の道理の本質を理解できる神や仏の立場。
互いに譲れないものがあるから、戦争に発展し、解決できないでいるのだから、
経過と共にその気持ちを抑える事ができなく、その信念を無理に変えようとは
思わない。その結果の「祈る思い」であった。
平和的に解決するに越した事はないからである。
配慮とはどのようなことか、NATOの加盟を示唆する前に予め両国間の信頼性を
改善できていれば、ロシア国は強行には及ばなかった一つの要因として考えら
れるが、両国の歴史的な問題もあり、クリミア半島も含め、単純な問題ではない
のは確かである。
ウクライナ国側にそのつもりはなくても、ロシア国側から見たら、
歴史的背景から何を仕出かすかわからないとなり、脅威に受け取られ、
NATOに加盟すれば、どうすることもできないと考え強行に及んだと考えられる。
脅威をなくし、安心して暮らせる世の中をロシア国民は信じていたと思われる。
その深刻さは、ロシアの国人でなければ理解できない。
それ故、配慮に欠ける行動であるが、神ではない限り避けることのできない侵攻
であったと見解に至る。
無論、そのような心境を他国に説明しようもないから経済を犠牲にしてまで侵攻
に及んだと推察する。
ここに記した内容は戦争が起こる経緯であり、現状は長期にわたる戦争により、
両国の考えも多かれ少なかれ変動していると思われる。
要約すれば、ロシア国は経済制裁を承知の上侵攻し、短期間で主要箇所を制圧し
ウクライナ国側に全ての条件を呑むようにと計算していたが、米国はじめとする
支援も含め、想像以上に苦戦を強いられ、泥沼化していった。
いずれにしても国際秩序を乱すロシア国側に戦争を起こした責任は全てあるのは
事実であるが、人と人が生きていく上での配慮も怠ってはいけないという教訓で
ある真実も受け止めていただきたいと切に願う。
説得が功を奏して、
一度、両国の交渉が締結されかけたことは事実にあり、それを覆したのは、
その後のロシア国側の多数の戦闘機による威嚇にて、それに不快を感じた
ウクライナ国側の態度が、ロシア国側の考えを一変させたと考える。
ロシア国側はウクライナ国を信用できるかを試したのではないかと推測でき、
その結果、信用できないと判断したと考える。
とは言え、その前に私はウクライナ国がロシア国の信用を得るため、
ウクライナがロシアに対して反発するような言動や行動は慎むようにと伝えていた。
私が強く念を押すことが出来ていれば、結果も変わっていた可能性は否めない。
悔やむ唯一の点である。
ロシア国がどのようの真意もって侵攻したかは定かではないが、
ウクライナ国をある程度、ロシアの思い通りに共存する関係にしておきたい
という狙いが理由として挙げられるのではないか。
思い返せば、初期にロシア国側がウクライナ国に求めた条件は次に三つある。
「非軍事化」「中立国化」「NATO非加盟」
私が大統領の立場として考えれば、この三つの内飲めない条件は非軍事化である。
その考えはウクライナ国と同じであることを前提に、その後条件が二つ増え、
少しでもウクライナ側の良い条件で交渉が締結されることを願い、
説得に当たっていた。
それから、ロシア国がウクライナ国を信用していない理由は三つの条件からも明らかであり、
指導者が歳を取り病気も患えば、両国の歴史もあり、より一層心配症に陥るのであろう。
初めの三つの条件を見れば、NATO加盟よりもまずは隣国との関係性を重視していれば、
違った結果になった可能性として、私の話を踏まえれば誰もが思えるのではないだろうか。
リーダーによって志は十人十色であるが、国民を守ることをまず何よりも考えなければ
ならないと考えると共に、リーダーを選ぶのもまた国民であるのだから全てはつながって
いるのである。起こるべくして起こり、避けられない戦争であったと振り返る。
仏教を少し嗜んだのは、己の思想はどのように適応しているかを確かめる上で、
知識として唯識について少し学んだ程度である。
今後機を熟せば、既存の学問と向き合う機会を得、あらゆる学問を知りたいと
魂は私に訴えかける。
されど、すべき事から順に進むべき道筋を辿るのが道理である。
吉野作造が残した言葉として、
「私たちが最も心がけるべきことは、
今現在正しいとされることを守り続けることよりも、
常により正しいことを追求する向上的な態度をもつことでなければなりません。」
これは大正という時代の言葉の表現であって、この言葉の本質は、
正しいことには理由があり正しいことであって、それをむやみ覆す意味ではなく、
向上心や常に何かを追求する姿勢を忘れてはならない。
簡単に言えば、物があって当たり前ではなく、
何故、それがそこにあるのかを問うことにこの言葉の真髄はあると私は考える。
当然、哲学的に道徳的に考えても、人が不快と感じる行為は、名誉とはほど遠く
真逆の行為である。不快な事で名誉は屈辱であると誰もが想像できる事であり、
それ受けようとする人間は、そもそもその機会すらなく名誉に値しない。
それと、人が不快に感じることは未来に悪い影響を与えかねない。
短歌
天命に
廻り四方に
刻みしと
平和の祈り
故人の思ふ
令和三年 三条至輝
この短歌は、ロシアのウクライナ侵攻における、
両国の説得時に詠んだ短歌である。
ロシアが一時侵攻を休止した時に、
経済制裁を緩和を促す合図として、
私のインスタグラムの内容と合わせるように
ロシアと中国の爆撃機が日本列島の近くを旋回した時に、
その思いを汲んで、私が代弁すると同時に、
祈る想いで平和への思いを綴った短歌である。
あたかも、岡寺の十三重石塔のことを知っていたかのように、
魂の一致である。
「至」も私が己で選んだ漢字である。
それゆえ、十三重石塔に刻まれている梵字の大勢至菩薩の「至」も魂の一致であり、
天からの賜りものである。
最後に、法に触れなかれば何をしても良いではなく、
現に、環境問題など未知なる問題が山積みであるように見え、
常に、何かしらに配慮し、共存し生きていかなければならないと訴える。
ウクライナ国、ロシア国、両国の平和をお祈り申し上げます。
黒色
黒色の心象は、ネガティブな「恐怖」や「死」をもち、また、良い心象は高級感や重厚感などあるが、
これは、人の感性に依存するため、感性が未熟な人が服のコーディネートをした場合、粗悪なものになる可能性が大いにあり、恐怖などの威圧感をもたらすことにつながる。
傾向にすることは、世に出回るものが粗悪なものが多く占めることが予想され、ストレス社会が更なるストレス社会を加速する要因の一つとなる。
黒色は傾向にするのではなく、丁重に扱い、真似事ではなく、個人の感性に委ね使用するべき色である。
考え方は、カブトムシの黒はかっこいいが、害虫の黒は毒々しく感じるのと基本同じである。
例え良いものでも、黒色の服装が不自然に街中に多く占めると威圧感があり、自然なバランスであるべき色と言う点が窺える。
要約すれば、黒色は丁重に扱えば高級感を表すことにつながるが、雑に扱えば恐怖などの不快感を多く生み出す色である。
更に黒色は、太陽光を吸収しやすく熱がこもる色であり、温暖化により近年熱中症が危惧されるようになる中で、黒色を主とした服装を傾向にすることは愚かな行為。大きな矛盾。また、黒色の服装は夜は見えずらく、昼は目立つ色であるため、夜の不審者と区別ができなくなる。その結果因果応報と解いたなら、自ずと愚かな未来が見えよう。
人類の未来
脱炭素と聞いてから、2020年と比べて2023年の世界の温室効果ガスが増えているのを見ると、未来は闇であると捉える。つまり、「皆が好きな?」黒色である。
社寺での催し物
以前も申し上げたが、寺院での招待客限定の催し物はするべきではないと考える。神仏は平等である観点から誰でも平等に参加できる催し物なら問題ないと考えるが、特定の人を招待する催し物は望ましくないと考える。場所を教会とすれば自ずと答えは出るのではないか。
少なくとも私が作ろうとしている華橋院は仏教やキリスト教などではない。
寺院の尊厳を傷つけ損なうだけである。黒歴史でしかない。
これがわからないのだから未来は闇なのも頷ける。
神や仏にとって特別な人間はいなく平等であるからその教えに反する行為となる。つまり、尊厳を損なう行為である。
そのような催し物をするとならば、大義名分がなければならない。もし、私と関係性を持たすだけなら大義名分にはならない。そのようなことはあってはならない。
豊臣秀吉が醍醐寺で大勢の招待客を招き花見をしたのも大義名分があるからであり、慶長3年3月15日(1598年4月20日)、豊臣秀吉がその最晩年に京都の醍醐寺三宝院裏の山麓において花見の宴を催している。秀吉は太平の世を築き、醍醐寺の中心である金堂(国宝)は豊臣秀吉の命によって、紀州(和歌山県)の湯浅から移築されたものであるから、大義名分となろう。
歴史ある寺院の歴史に泥を塗った行為と言っても過言ではない。受けた寺院も非はあるのだが、そのようなことを打診する方にも多くの問題がある。
私利私欲だけの催し物は、神や仏に似つかわしくないのは自然な感覚である。
基本の考え方は比叡山の焼き討ちの理由とさほど変わらない。
社寺などの施設は宗教活動のため固定資産税が課税されないなどの優遇を受けている。それ故、決して私利私欲のために使われてはならない。人々の良き理解者であり、助言者であり、観光で公開している場合は、皆の癒しの場でなければならない。
このような経緯から、寺院で第三者が開く催し物に招待され参加する意義に招待された人は「何様であるか」となるのは自ずと答えはでよう。
第三者と言えども、寺院関係者が承諾の上なのだから仏に仕える身であるからして、仏の心に背く行為である内容から、尊厳を損なう行為となる。
繰り返すが、承諾した側だけが悪い訳ではなく、常識的に考えれば非常識な内容であることは察しがつくように思うが、互いに欲望のまま同調し行われた催し物と考察する。したがって、そのような催し物は初めから問題外として社寺・教会などに打診する以前の問題でもあり、双方に非があると言える。
無論、寺院関係者が開く招待制の行事に関しては、宗教活動に従事していると考え、例外である。とは言え、その全貌は私には分かりかねることである。
一度ついた歴史の汚れは消えることはない。それ故、たかがそれだけのこととお思いの方もいると考えるが、三度に及びとても悲しい出来事と存じ上げる。そのような気の緩みから秩序が崩壊し始め、泥沼化するとも考えられる。それだけ宗教は歴史上において、秩序を守る習慣に密接な関係を築き、多大な影響力を人々にもたらしたと考察する。信長が比叡山焼き討ちしたのもその一環である。
平和ぼけと言えばそれまでだが、危機感の薄さに先が危うく感じるのは己だけだろうか。気を引き締めて生きていかなれば、新型コロナウイルスやウクライナ戦争などのようにこの先何が起こるか、未来は未知なる先なのだから。
皇霞京
証明
第三十一代松田宗家伝承者
Sumeragi Kakyo - Current
皇迦亨(別案)
名称の由来
皇霞京は、三条至輝の別名(芸名)で松田宗家を伝える通称に宛てた名称。
「皇」は松平四家の血筋の原点である桓武天皇。そして、頼盛の子千手姫と後深草天皇の間に生まれた久明親王(皇族)から「皇」の字を賜りたき候。
「霞京」の由来は、「架橋」にあり、また至輝のゆかりの場所から導き出される。
その場所が大阪府の東側にあることから祖の右京大夫の官職に由来し、
東側である場所、クロスの観点から右京大夫は左大臣で「東京」の東側。
右京大夫は「京都」になり、東京は逆流し京都となる。共通する「京」の字を賜りたき候。
霞 Ka
「霞」とは、意味は「空気中に浮かんでいる細かい粒子のため、遠くがはっきり見えない現象」
「物がぼんやりと見えること」「朝焼け、夕焼け」「艶かしい」「遥か、遠い」など。
はっきり見えない人生と重ね至輝そのものの現象を表す。
次に漢字の成り立ちは、上部にある部首のかんむりが「雨:天の雲から雫が滴り落ちる」形象と、
下部が「未加工の玉」形象、「削り取られた崖」形象、「両手」形象から考える。
両手は左脳、右脳。祖の左大臣、右京大夫。
「天の雲から雫が滴り落ちる」形象は、雲は雪を降らせ、雨になり、霞みゆく。
「未加工の玉」形象は、真珠で岡寺の院号真珠院、十三重石塔。
「削り取られた崖」形象は、一度崖から落ちたような経験。また背水の陣の心を意味する。
「両手」形象は、右大脳半球、左大脳半球、双方に極意を持つ。
左脳は理論的、右脳は芸術的。
霞の朝霞や夕霞は、日の出や日の入りを連想させ、新しい始まりや終わり、再生の象徴となり得る意味から三条家再興を図るに相応しい字であると言える。
京 Kyo
京の部首は「亠(なべぶた/けいさんかんむり)」で鍋島や渡辺、数学者(和算家)との関連付けがされている。
岡寺の別称である龍蓋寺も鍋蓋との関連された名称である。
また京の漢字の成り立ちは、高い丘の上に建つ家の象形から「みやこ」を意味する。
従って、「高い」は、祖の平業房の妻「高階栄子」、家は松田家頼(武田信玄)と徳川家康を指している。
みやこの他に、「高い丘」「大きい丘」「高い」「大きい」などの意味があり、
京は架橋の「橋」で、橋架の「橋」でもあることから川に掛ける橋には大河があり、大河内の姓を示す。
つまりここでは、一級河川の桂川が流れる渡月橋を意図し、大河内輝声の号源桂閣、池大雅、渡辺崋山や夏目甕麿、そして京都の豪商角倉了以など嵐山に関連する人物の一つの集合体が完成する。
おそらく、「崋山」は「嵐山」を指す名称でもあると見え、そこから自然と渡月橋が浮かび上がる。
「霞京」で都を再興する意味となり、三条家の基盤を構築する意味を持つ。
皇 Sumeragi
「皇」の成り立ち、下部にある王偏は元、土(燭台(しよくだい)の象形がのちに王の形に変わる)。
その上に、火光(白は誤り変わった形)が輝くさまにかたどり、輝き渡る意を表す。
至輝の代で通字が「至」に変わり、元通字の「輝」は「皇」の漢字の成り立ちの中に生きる。
既存にある「皇」姓は花山天皇が語源と伝わっており、花山天皇の父親は冷泉天皇で、弟に三条天皇がいる。
花山天皇は第六十五代、三条天皇は第六十七代である関係性から同じ兄弟で継承する
祖の武田信玄は松田宗家第十代、上杉謙信は松田宗家第十一代、織田信長は松田宗家第十二代と重ねる。
また江戸時代に入り、華岡青洲の実子である弟の渡辺崋山と兄の大塩平八郎の兄弟から崋山が名である理由も含め関係性が逆であることを示す。
つまり、後継となる兄の大塩平八郎が三条天皇にあたる。それを補足するのは、平八郎の子の土方歳三の「土、三」と渡辺崋山の「渡」から「皇」の字と結びつけ三条天皇を示し「三条」の姓を暗示する。
渡辺崋山の作品の中で国宝に指定されている『鷹見泉石像』からも冷泉天皇と花山天皇、三条天皇を意図していることが明瞭にある。
皇霞京
皇霞京(すめらぎかきょう)は三条至輝とは異なり、文学者、ピアニストやモデルなど
芸術面で活動する時の通称とし、松田宗家を伝える役目を担う名称。
上杉謙信の「けんしん」に重ね、「霞京」の諱部分は全て音読みとしている。
「ケンシロウ」は「霞拳志郎」に、読み仮名をカタカナにより
音読みを強調していると考え、「霞」は母音が同じ理由から先代が関連付けた「巽」に宛てた字である
可能性が見える。「巽」は後ほど説明するとして、霞拳志郎の「霞」は「関孝和」や「池大雅」の「関」「池」に宛てた字であるのは、
歴代宗家で一文字の名字は他に誰もいないため、第十七代至輝が「皇」の一文字の名字を称することにより、「三条」を含め
関連性が完成する。ジグソーパズルで例えれば最後のピースとなる。
ジグソーパズルの起源は宝暦十年(1760)頃に、英国のロンドンで地図職人技師として働いていたジョン・スピルズベリによって、最初につくられたと考えられ、
最初のジグソーパズルのピースは、地図のパズルであることから、絵師や画家、伊能忠敬を示し、渡辺崋山の生まれが寛政五年(1793)であることから、その時の伝承者である平田篤胤との間でジグソーパズルとの関連性を思案されたと考えられる。
完成と寛政を掛けたのであろう。
「皇"Sumeragi"」は、ジグソーパズルの英国から"Smell"の英単語を意図し、鼻が効く犬を連想されることから、
三条信輝(新井白石)の政策の生類憐れみの令や上野英三郎の犬好きの趣旨が窺え、
新井白石の白の輝き(宝石真珠)から「皇」は祖が示す別姓の名字である確証に至る。
また、宝暦十年(1760)と寛政五年(1793)が三条家十七代当主である三条至輝の別姓であることを表しているのは言うまでもない。
祖が「皇」という姓を選んだ意向を惟れば、室町時代から戦国時代に移り、織田信長の時代とも言える安土桃山時代、江戸時代、そして、明治時代、大正時代と日本の歴史の中で律令制の頂点に君臨し、天皇を支え、永きに渡り歴史を作ってきた自負であると考える。
現当主にある至輝はその重みを汲み、未来へと精進し、「三条」は勿論、「皇」の別姓をつないでゆくため、この世に生を受けたと解釈すべきことである。
架橋
霞京に別の字を与えた別意の由来。
架橋とは、化学反応における架橋(かきょう、Cross-link)を指し、主に高分子化学においてポリマー(重合体)
同士を連結し、物理的、化学的性質を変化させる反応のことである。
簡単に言えば、既存の高分子上の部位またはグループが関与する反応によって、新しい特質した物質を生み出す
ことができる。「クロス」という点において、鹿苑寺流など祖のクロスを示す。
また、新たな可能性を見出す意味も含め、裏の由来として相応しい。
架橋の例
・東京都は、東京と京都が架橋した名前が東京都。
・山羊座は、山羊と魚が架橋した架空の生き物。
橋架
架橋に逆流系別意の由来。
意味は脳にある橋(きょう)を指し、上部の中脳や大脳と下部の延髄以下の部分の連絡路で、三叉神経、
顔面神経核、蝸牛神経核が通っており、その大脳との連絡を意味する。
三条家始祖の松平信綱、絵師の土佐光起から時(祝)の人である祖の数学者の久留島義太から分岐する血筋、本流である石川雅望の流れが一つ、
自然血族である本草学者をはじめ多彩な才能を持ち合わせる天才異才と称される平賀源内の流れが一つ、伊豆守系の文人画家の池大雅が一つとして三つある。
また、数学者の関孝和から陶芸家の仁阿弥道八へつづく系統がある。
左大脳半球は論理的で数学者や国学者などを指し、
右大脳半球は芸術的で画家や陶芸家などを指す。それらの四つに分岐する祖から左脳、右脳の架け橋となる。
箕作秋坪も三叉学舎の塾の名称から脳の三叉神経と関連性を持たせ、左大臣や右京大夫、華岡青洲など医師や蘭学者との関係性を示している。それを被せるように農学者の上野英三郎の農学。
「クロス」と「十」の根源は、松田の「田」であるが、松田唐花や二重直違などのクロスした家紋から考えられ、脳のクロス働きである「左脳が右手を動かし、右脳が左手を動かす」と結びつけている。
また橋架は、同じ読み方で、祖の石川雅望の狂歌師の「狂歌」に石川雅望との関連性を示す。
迦京(別案)
霞京の「霞」を「迦」に置き換えた別意の由来。
「釈迦」はシャーキヤ(梵: शाक्य Śākya)で「霞京」は[Kakyo]。
"Sakya"が"Kakyo"と架橋[Cross-link]し、迦京とする。
同じ仏教において次に連想される迦京頻伽[Kakyobinga]。
迦陵頻伽(かりょうびんが)は上半身が人で、下半身が鳥の仏教における想像上の生物。
サンスクリットのカラヴィンカ(kalaviṅka)の音訳。
『阿弥陀経』では、共命鳥とともに極楽浄土に住むとされる。
その声は非常に美しく、仏の声を形容するのに用いられ、
「妙音鳥」「好声鳥」「妙声鳥」「逸音鳥」「妙声鳥」とも意訳される。
また、日本では美しい芸者や花魁、美声の芸妓を指してこの名で呼ぶこともあった。
創作物に登場する
雅楽 迦陵頻
仏教行事の舞楽。迦陵頻伽の舞を表現しており、
蝶をモチーフとした胡蝶と対で舞われる。
輝声の「声」のひとつの由来にあたると思われる。
何故なら、妹である楠本高子は、幼少時に琴や三味線、舞など芸事に熱心であると記されている。またその妹の陸奥亮子は明治初めの頃、東京新橋にある柏屋の芸者であることから、
歌も唄うことも連想され、輝声はその歌声を聴いていたに違いない。その亮子の「亮」から「京」が「陵」に変わり迦陵頻伽が導き出される。
釈迦の敬称は「十号」「仏陀」「如来」であることから、
「十」「号」「ム(無)」「蛇」「女」「来」のこだわりが祖から見てとられる。
迦亨(別案)
「亨」は三条通に由来し、「さしさわりなく行われる」「すすめる」などの意味を持つ。
亨は終了の「了」を指し、終わりを意図する。
つまり、「尾張国」で、現在の愛知県西半部にあたる。
曽祖父の吉野作造(蔵)から、服部半蔵を暗示する。愛知県の東半部は三河国にあたり、徳川家康の統一した国になる。服部半蔵は徳川家康の家臣であることや、三河国は古代、
「国造本紀」によると、成務天皇の御代に物部氏族の知波夜命が参河国造(三河、三川)に、雄略天皇の御代に菟上足尼が穂国造に定められたとされる。
このような歴史から服部半蔵を連想し、東とは反対の、愛知県の西半部を指し、尾張国を示している。
補足して、迦亨(架橋)の由来の一つである川で、淀川から名張川経由吉野川へと辿り着く名張川は、服部半蔵の生まれた故郷の伊賀国にあたる。
名張市内の城跡一覧
伊賀 北畠具親城 三重県名張市奈垣字村田
かしはらじょう
伊賀 柏原城 三重県名張市赤目町柏原字宮城
伊賀 名張陣屋 三重県名張市丸之内
伊賀 桜町中将城 三重県名張市下小波田
伊賀 滝川氏城 三重県名張市下小波田字下出
伊賀 下山甲斐守城 三重県名張市下比奈知字兼前
伊賀 有綱城 三重県名張市薦生字掛
伊賀 青蓮寺城 三重県名張市青蓮寺字斧出
伊賀 松倉豊後守城 三重県名張市八幡字刈山
伊賀 筒井順慶城 三重県名張市短野本陣山
伊賀 頓比屋宇峯砦 三重県名張市安部田字馬廻り
伊賀 頓比屋宇峯北砦 三重県名張市安部田字馬廻り
伊賀 頓比屋宇峯南砦 三重県名張市安部田字馬廻り
伊賀 愛宕山砦 三重県名張市青蓮寺字後山
吉野作造(宮城出身) 松田徳太郎(浦野) 妻 愛子
岡寺 十三重石塔(岡寺龍蓋池の上部東の山麓に位置する)
松田宗家第十三代当主 松田頼勝 伊達政宗(仙台藩藩主)
かしはらじんぐう
橿原神宮(岡寺の西側に位置する)
松田宗家第十二代当主 松田達頼 織田信長(第六天魔王)
池田恒興(幼少の頃から信長の小姓として織田氏に仕えた)
織田信長は信行が謀反を企てた時、尾張国下四群を統治していた。
要法寺 京都市左京区新高倉通孫橋上る法皇寺町
何やら関連性が見えてくる。
要法寺
至輝・皇霞京の発祥の地
本山要法寺全景図から院の並びと関係図
松田信実は松平信綱であり、図からも示されている。松平信綱は元和六年に一月二十日に五百石与えられ、その功を祝して三つ反り扇の家紋にした。
反りとは謀反の「反」で「祝」は諱で「とき」と読ませている。これは、織田信行が二重に謀反を起こしたときであると図や関連性から読み取れる。
併せて「祝」の漢字は、誕生日や生まれ婚姻などの慶事を意味する。よって祝は、信行が謀反に起こし、信長により謀殺されるまでの時期に信忠が生まれたことも表している。
また、猪◯問題の猪熊教利の後裔は生駒に姓を変えていることを踏まえ、織田信長の嫡男信忠の母は生駒吉乃(いこまきつの)とあり、吉野の姓とかけ、性的問題を合わせて記し、
出自偽装犯徳川秀忠と猪熊教利を紐づけている。
織田信長は、岩倉城を攻め落とし、尾張統一を果たした。これを岩倉具視の三女極子と戸田氏共の間に生まれた次女の米子と婚姻する上で補足している。
また、それらから桶狭間の戦いにつながり、今川氏の祖の今川国氏(松田頼盛)との関連性を示す。
至輝の誕生日でもある十二月二十三日を示す意図は、松田宗家十二代当主松田達頼(織田信長)と安芸毛利氏の第十二代当主毛利元就とつなげるものである。
毛利元就は永正八年(1523)に家督を相続しているため、その関係性と更に三条正永(松平信綱)との関係性を示している。
年号である永正と諱である正永が上下逆にあるのは、信行の謀反とは逆の結末の立場で迎えた本能寺の変。織田信長が明智光秀の謀反により終わり、それを示す。
直系の血筋である松田宗家第十一代当主松田頼信こと上杉謙信(上杉輝虎)を示すものは、淀川の橋の数と、池大雅の諱の読み方(たいが)、
そして三条家の通字である「輝」で示す。つまり、大河内の「大河」をタイガと読ませ英単語とし、輝虎を暗示している。
「祝」の関連性から毛利元就も、朝廷から官位を与えられた際には「大江元就」の名称で記されていることから、大河内輝声と第三子の江木欣々の一文字目で「大江」を表している。第三子は松田系図の頼貞流を表し、第一子は大河内輝耕、第二子は上野英三郎。
結城秀康も「結」は婚姻や同盟で同様にあり、城と徳川家康(松平元康)と合わせ示されている。
織田信長は尾張国を統治後、徳川家康と同盟を結び美濃統一に動き出した。美濃を征服し居城を金華山に移した信長が中国の縁起のよい地名にちなんで「岐阜」と命名。ここから天下統一の足がかりとなった。中国や毛利元就中国地方の関連付けと渡辺崋山。渡辺氏の始祖は渡辺綱から美濃を至輝の元名一文字の「実」にかけ、松平信綱と紐付けている。徳川家康の家臣渡辺守綱や、渡辺綱と同じくして血筋は関係ないが、平安時代の渡辺至という人物の関連性も見られる。この関連付けにより、毛利元就、織田信長、結城秀康、松平信綱、三条至輝(松田実)同じ家系である強固な証明と言えよう。
名張の「名」、人や城、地名などの名称に因んでいる。
三条の発祥の地は次の地名にあり、上杉謙信の生まれ故郷の新潟県上越市(越後国)から三条の家名により新潟県三条市、松平信綱の川越藩主で結びつけている。
京都府京都市中京区石橋町三条通寺町東入
京都府京都市中京区石橋町三条通新京極東入
京都府京都市中京区石橋町三条通河原町西入
京都府京都市中京区石橋町三条通新京極西入
芥川山城
天下人三好長慶の居城。細川晴元を天文十八年(1549)に家臣の三好長慶によって追放。長慶は将軍足利義輝も京都から追い出し、実力で天下(当時の畿内)の支配する。
長慶による天下の政治は芥川山城で行われ、文芸の場ともなった。武家に加えて長慶の裁きを求める村人や公家、また連歌師や儒学者など多くの人びとが登城し、天下の政庁として役割を果たす。
永禄十一年(1568)九月、足利義昭を擁する織田信長は三好氏の勢力を追って芥川山城へ入城し、面会を求める多くの武将や商人、さらには天皇の勅使を迎え、そして新たな天下支配の枠組みを示した後、念願の上洛を果たす。この信長らの行動には、三好氏の天下を引き継ぐ意味があったとも考えられる。
これらから芥川龍之介の名称は、松田達頼と織田信長が同一人物であることを示している。
また、織田信長の正式な名前は「平朝臣織田上総介三郎信長」であることから上野英三郎が重ね、その本名である三条輝耡(てるすき)が三好長慶と重ね、一連の繋がりを示している。
上野は上野国群馬郡の高崎藩や服部半蔵の故郷である伊賀国から伊賀上野城とも紐づけられている。
東京都文京区の東大弥生キャンパスに建つ上野英三郎の銅像は西洋帽子を被ったものである。つばの広い西洋帽子は、戦国時代南蛮人が渡来した際流行し、当初は「南蛮笠」「南蛮頭巾」などと呼ばれていた。織田信長の生涯を描いた「信長公記」には南蛮文化を気に入っていち早く自身のファッションに取り入れた織田信長が、黒い南蛮笠を被って馬揃えを率いていたことが記されている。
それに合わせ織田作之助も同様、西洋帽子を被っている姿が見受ける。
織田信長は、上洛後に経済の活性化のため、室町幕府とは別に独自の撰銭令を大坂・京都・奈良で発した。その撰銭令の内容は「良銭と悪銭の公認交換レートを定める」「撰銭したものを処罰する」「高額取引における金・銀の使用」「米での売買の禁止」。土方歳三が(鬼の)副長を務めた新撰組の「撰」は撰銭令と紐づけ、土方の「土」は安土城と重ねている。
これらから、岡寺の十三重石塔の「三」は吉野作造の「造」と関連性を持たせていることがわかる。
十三重石塔には「じゅう」が二つあり、鉄砲ともかけ、「じゅう」が二重の家族を表している。また、二重の手掛かりから木下藤吉郎を表す。それは、当家系で「木」が下側に二重にあるのは「江木」と「並木」で「木下」の姓を表し、吉野作造の「吉」。そして二重にある「こうたろう」の下側の「郎」。
これらを合わせると「木下吉郎」になるが、ここで十三重石塔の浦野徳太郎こと吉野作造の署名が中央にあることから「吉」を中央に配置する趣旨から窺え、「石塔」から「十」の読み方の二重にある「とう」を頭に置けば、「木下とう吉郎」となる。
異見十七ヶ条
織田信長は元亀三年(1572)九月に室町幕府の将軍・足利義昭に対して出した十七ヶ条の意見書がある。それに松平三条家第十七代当主三条至輝と紐づけている。それを補足するように三条輝照、芦田幸太郎と二重にある鶴見の姓がある。そして鶴見は二重にある「木(き)」から月見を意図し、夏目甕麿の終わり、織田信長の終わり、それから三条輝照の終わりを暗示する。
天正と大正
天正の元号は、足利義昭を京都から追放した織田信長が、公卿や朝廷を通じて元亀から天正へと改元させることに成功し、信長が武家政権の長として改元に容喙した事実は織田政権の開始を象徴する出来事であった。
この天正の「正」を大河内松平宗家の通字として関係性を示し、大正の元号は大河内の「大」を「正」と組み合わせることにより、天正へのつながりを色濃く残すものであると捉える。
再興
蓮如は本願寺を再興させた浄土真宗本願寺派第八世宗主で、蓮如から蓮教という名を与えられて改名。山科に坊舎の造営を開始し、興正寺(真宗興正派)を建立する。山科本願寺は落成し、蓮如は隠居後大坂石山の地に大坂御坊を建立し、居所としたのちの大坂本願寺。
蓮如は親鸞の嫡流とはいえ、生まれた時の本願寺は、青蓮院の末寺に過ぎなかった。このような内容に柳原白蓮、吉野作造、名張川の支流にある青蓮寺川、その先に青蓮寺ダム、青蓮寺湖にある青蓮寺橋に関連性を持たせ、
織田信長や徳川家康を苦しめた、一向一揆の元凶となる大坂本願寺(石山本願寺)を暗示している。
再興という点で三条至輝と重ね、祖の山科家を示している。
伊豆守
官職名入りの松平伊豆守信綱の名称は、織田信長と関係性を示すものである。織田信長は室町十五代将軍足利義昭を追放した後、天正三年(1575)十一月に権大納言・右近衛大将に任ぜられ、左中将のままであった義昭の上位に立った。
近衛大将の武家政権時代の到来は建久元年(1190)、源頼朝は平治の乱で伊豆国に流罪となって以来初めて上洛し、権大納言と右近衛大将に任ぜられた頼朝から始まる。
伊豆守は伊豆国に流罪、信綱(正永)は信長、大河内は二重にある「大」の権大納言と大将と重ね、功を祝して家紋の変更は権大納言、右近衛大将任ぜられたを表し祖の織田信長を示している。頼朝の「頼」は松田家時代の通字。それを補足するように輝照の次男の上野英三郎で義昭の上位を表し、朝吹磯子は頼朝を指す。また、吉野作造の大正デモクラシーもこれの補足であると窺える。
源氏
徳川家康は、本姓を藤原氏を経て清和源氏新田支流に変えている。源氏にこだわりを見せたのは祖の松田家の出自を示すためである。
徳川の真の本姓は松平氏であり、源氏は源頼朝で松田を示している。
松平の頭三文字を取れば「まつだ」で、頼朝の一文字目の「頼」の通字から松田氏といえば、丹後松田氏となる。
丹後松田氏の発端は、松田頼盛(山科頼房)は山科教成の実父、平業房の次の出来事にある。
治承三年(1179)正月に正五位下・左衛門佐に叙任されるが、同年十一月の治承三年の政変により再び解官され、伊豆国への配流に処されるが、途中で逃亡する。
同年十二月に清水寺の僧房にて兵衛尉・藤原知綱に捕らえられ、権大納言・平宗盛のもとで拷問を受けた末に殺害された。
このような出来事から山科頼房は、平家を滅ぼした源頼朝に何かしらの敬意を抱き、分家し、松田を号した真相が見えてくる。
松田宗家第九代松田信頼(毛利元就)、松田宗家第十代松田家頼(武田信玄)、松田宗家第十一代松田頼信(上杉謙信)、松田宗家第十二代松田達頼(織田信長)から松平伊豆守信綱の関連性が示されており、徳川家康が江戸幕府を開いた後、松平を賜姓として振る舞うたのは同じ松田家の出自であることを示すためである。
風魔小太郎
第六天魔王、幸太郎、大の反対は小、服部半蔵から風魔小太郎が連想され、武田信玄の旗指物(軍旗)に記されたとされている「風林火山」が導き出される。
名張市の城や家系である名称を見ても武田信玄がふと浮かび上がる。松平三条家第一代松平信綱、三条家第九代矢野玄道の代の数を足すと十になり、松田宗家第十代は松田家頼。つまり、武田信玄である。
教育機関の充実
アレッサンドロ・ヴァリニャーノが天正七年(1579)日本に渡来し、滞在は本能寺の変が起こる天正十年(1582)まで続いた。
天正九年(1581)、織田信長に謁見した際には、安土城を描いた屏風(狩野永徳作とされる)を贈られ、屏風は教皇グレゴリウス13世に献上されたが、現在に到るも、その存在は確認されておらず、行方不明のままである。
また、信長が黒人を見たいと所望したため連れて行った黒人奴隷を信長に献上した。弥助と名づけられて信長が死去するまでの十五か月間ほど信長に仕えたとされている。
ヴァリニャーノは日本人の資質を高く評価すると共に、当時の日本地区の責任者であったポルトガル人準管区長カブラルが認めなかった日本人司祭の育成こそが急務と考え、司祭育成のために教育機関を充実させた。
これらの内容により関連性を図るため、祖が大学の創設など教育機関の充実に従事した一つの理由と考えられる。
迦亨から霞京
三条輝照が内務省を創設し、その後継にあたる総務省、警察庁、国土交通省、厚生労働省、法務省は霞ヶ関にあることから時系列に従い「迦」を「霞」に変え。
三条輝照の京都保存計画も含め、「亨」を政治の中枢や東京と京都の架け橋と言う意味で二重にある「京」に変え、「霞京」とする。
江戸城(皇居)にある二重橋は、霞ヶ関の法務省から丁度北側に位置し、近くの桜田門を通って正門石橋を渡り二重橋にたどり着く、このような筋道から霞京である諱を示す。
迦亨から霞京に変化する意図は、十三重石塔に正面(西側)に刻まれた梵字のキリークの千手観音にあり。千手観音は観音菩薩の変化身と考えられている内容から示されている。また、二重にある家族を示すものである。
時系列にて変化する意味は、関連づけられた人物を時系列に並べ、祖を妥当な年代順に当てはめていく趣旨が込められていると考える。誰もが自然に考えることでもある。
諱の由来の経緯
京都市中京区石橋町三条通 → 三条大橋 → 要法寺(三条通北側に位置)
架橋 → (増)迦(終)亨
迦亨 → 霞ヶ関・正門石橋・二重橋(東京) ⇄ 石橋町三条通(京都)
霞京 → (霞ヶ関)霞(東京・京都)京
京都の要法寺が北にあり、東京の法務省が南にあることから北と南が逆転し、「法」の位置も上下が逆になっており、反対の意図がわかる。
また、皇霞京には、東京と京都をつなぐ架け橋になるという意味が過去も未来も含め込められている。
祖の意向を感化し、自身の思いを重ね、三条ブランドを創設し、その役目を担う事業に努める所存である。
号 冥月 Meigetsu
冥月は次の事柄から由来する。
冥王は「巽」の八卦の五星から得られる名称、冥王星の「冥王」。
ギリシャ神話では冥界の王ハーデース。
ギリシア神話の農耕の神・クロノス(Kronos)の子である。
類似する事柄で、
生まれた日が十二月二十三日であることから、山羊座。
山羊座は、時間の神・クロノス(Khronos)に象徴される土星に守られているとされている。
クロノスは古代ギリシャの時間の神で、ひげと翼を持った姿で描かれる。クロノスは過去から現在、
未来への時間の進行を司ると考えられており、自然の周期や季節と結びついている。
あまり情報がない、謎の時間の神・クロノス。
冥界は冥府とも表記し、大阪府の「府」と掛けていると窺え、大阪府で生まれた場所を冥府と考え、
冥界は死後の世界で、土星の「土」を持つ至輝は、音読みで「シキ(死期)」として関連された「冥王」の「冥」。
時間の神・クロノスは自然の周期や季節と結びついていることから「シキ(四季)」の親密にある、
一年を一二分にした期間の「月」をとり、「冥月」と号する。
クロノスは祖の先手姫の養子先、三条公親と徳大寺公親の諱の縁から来ている関連された事柄と考えるが、
その縁を担いで、冥界の神・ハーデースと時間の神・クロノスの夢の架橋、その名称とは、
「冥月神ハーノス(Netherworld space-time god Hanos)」。
何ゆえ暗闇を意味する「冥」なのかは、反対を意味する「明」を指し、主に久明親王、藪明山、明治天皇の関係性を示すためにある。
三つの家紋
扇揚羽蝶(三条揚羽蝶)
種別 三条ブランドと皇の定紋
創作 揚羽蝶のオリジナル家紋
意味 伊勢平氏を象徴する蝶紋と松平信綱の功を祝しての三つ扇に由来
人物 皇霞京
皇雨龍
種別 皇の副紋
創作 雨龍のオリジナル家紋
意味 「水龍」であることから、水神として崇められ、雨龍に雨乞いをしたと伝わることから、
岡寺の農民を苦しめていた悪『龍』を善龍に改心させた伝説に由来する。
人物 皇霞京
三条蝶
種別 三条家の家紋
創作 三条家伝来の家紋
意味 久明親王を守る三人の御家人とその伊勢平氏維盛流松平氏
人物 三条至輝
霞蝶々魚
Pyramid butterflyfish
スズキ目チョウチョウウオ科に分類される魚類の一種。
和名は海中が霞むほど大きな群れを作ることに由来する。
英名は白の模様をピラミッドに喩えている。
・全長は約18cm
・頭部は褐色
・体側の大部分と尾鰭、腹鰭は白い
・背鰭や臀鰭は黄色い
生態
チョウチョウウオ科の魚の中では珍しくプランクトンを主に食べる。
水深60mまでの潮の流れが速いドロップオフで大群を作る。
皇霞京の家紋が蝶紋である一つの理由である。
文学者
文学者は、作家や詩人など文学作品を作る人の総称で、
文学を研究する人も文学者と呼ぶ例もある。
北朝鮮とアメリカ合衆国初首脳会談の起因も、私の哲学的な詩から始まり、
孤立し精神的に苦しむよりも、他国と向き合う姿勢の方がより良き未来になることを
心理上において経験させ、初首脳会談に導いた例である。
哲学的の詩も、哲学者や文学者としての証である。
文学面においては、松平家物語を著書することが今後の最大の目的となり、
更なる向上が期待される。
第三の名称
夢の中で考えた名前。
にいざき れんか
新崎蓮夏
夢の中の漢字は、「にいざき」は新潟の「新」で「新崎」。
「れんか」は「連歌」からの発想と記憶にあるが、
蓮の記憶もあり、霞ゆく夢の記憶とかけて霞を使用したいところだが既に使用しているため、関連性の強い夏目甕麿から「蓮夏」とした。
因みに新崎は、新潟県新潟市北区の町字にある。
夏目甕麿の元名の姓は杉浦であるから、上野と浦野の姓から上杉の姓を指し、上杉謙信の裏、つまり血筋の直系であることを示す。
使用する機会はないように思う。
霞京という諱は漢字も読み方も自身で考え決めたものであるが、先祖が名付けてくださった名前と一致し、感慨無量にも驚嘆恐悦至極に存じ、魂でつながっている証となるものである。
先代の脇差
先代が所有していた脇差は、土方歳三の関係性を持たすものと、関ヶ原の戦いで西軍を裏切った「脇坂安治」との関連性を示すものであると見える。
土方の愛刀は和泉守兼定であり、奈良から二番目の本籍となった岸和田市は和泉国岸和田藩であるため、山羊座の守護星土星と合わせ関係性を示している。先代もやぎ座である。
また、本籍地は、明智光秀像所蔵の本徳寺付近であることから、脇坂安治と合わせ裏切る本能寺の変を表している。
更に、津山松平家との関係性を示し、津山松平家は越前松平家の宗家にあたるため、祖の結城秀康との関連性を示している。
その内容は、津山松平家代々伝わる家宝のなかに、「童子切安綱」(平安時代作)があり、天下五剣の一つに数えられ名刀中の名刀である刀を、
津山藩松平家後継の松平康春が戦後の混乱期に、財産税などの資金が必要なり、八万円で石黒久麻呂なる人物に売ってしまったことに重ね、
先代は、脇差を質に入れたと口伝にて知り、「安綱」から結城秀康と松平信綱、そして松田宗家の関係性を示している。
左親指を切るは、親を大人に変換し、音読みで「だいじん」。左なので左大臣となる。それから、親指は一番太い指だから諱の「輝政」と合わせ太政大臣を示し、
指は刀で切れるので、岸和田出身の先代は和泉守兼定と合わせ太政大臣兼左大臣を表し、和泉守は先代が関係性を持たせた三重県から三番目の「み」とれば「いずのかみ」となり、伊豆守信綱を表す。
太政大臣兼左大臣
鹿苑寺流は松平伊豆守系と松平高崎藩系がクロスして成り立つことを前記に説明したが、松平信祝(久留島義太)の第十二子の「兼」が高崎藩系松平輝高(本居宣長)と婚姻し、松平三条家は高崎藩系に移行し、伊豆守系は吉田藩系となり大河内の姓を受け継ぐ。
松平輝高の極官は右京大夫であることから、先ず「大夫」に着目し、「夫」の二重線をとれば「人」が現れ、「大人」となり音読みで「だいじん」と読む。伊能忠敬から地図上にて右京は向かって左側にあるため右京大夫は「左大臣」となる。系図の流れの位置からもクロスしている形から伊豆守系の右から高崎藩系の左に移行していることがわかる。
次に太政大臣を示すものは、松平信祝の第三子の松平正温(平賀源内)は大河内松平宗家に養子の五代目になり、後裔の大河内松平宗家八代松平正敬(大塩平八郎)の第二子の松平輝聴(福澤諭吉)が松平三条家である高崎藩系に養子となり後継者となっていることから、
「正敬」に注目し、真ん中の「へん」の「苟」をとれば「政」となり、右京大夫であった高崎藩系になることで久留島義太と合わせ太政大臣を示す。
クロスの支点となる「兼」から太政大臣兼左大臣を示し、松平三条家の松平信綱から右京大夫の官職は太政大臣兼左大臣であることを示す。また、大河内松平宗家から養子にきた松平輝聴から江戸末期の松平輝照まで太政大臣兼左大臣を表している。
また、松平信綱から始まる伊豆守系から吉田藩系となった通字は「信」であるから、松田信頼(毛利元就)も太政大臣兼左大臣である関係性を示している。
全体を通して松平正敬の官職が織部正で、本居宣長、伊能忠敬から本能寺の変が浮かび上がる。
東の要法寺と西の正法寺
東の要法寺に対して、西の正法寺に三条至輝、別名皇霞京と紐づけられている。
正法寺は東向日駅のバス停から20分ほど乗車した南春日町で降りた場所にある。東向日は惟任日向守光秀と重ね、光秀は松平西家であるため、かごめかごめの歌と合わせ、東向日は猪熊教利が松平西家ではなく松平東家である真実を示している。
猪熊教利を示すのは、正法寺にある鳥獣の石庭の「獣」で大まかに関連性を持たせている意図が見え、先代が「生野区巽(たつみ)」で補足している。それは、東向日の次のバス停が「辰巳(たつみ)」であるため、生野を猪熊教利の後継の姓である「生駒」と重ねている。
正法寺は応仁の乱の戦火で焼失し、元和元年(1615)に、戒律復興運動の祖・明忍律師の法友・法弟である彗雲律師、長圓律師により正法寺として再興され、元禄年間(1680~1703)には、徳川綱吉の母、桂昌院の帰依を受けて、徳川家代々の祈願所となりました。(公式ウェブサイトにて引用)
徳川綱吉と吉野作造こと松田徳太郎との関連性や生類憐れみの令からハチ公の飼い主である上野英三郎との関係性を示す。正法寺がある大原野は鷹狩りに最適な場所とされ、桓武天皇をはじめ多くの貴族が鷹狩りを楽しんだと伝わる。鷹狩りといえば織田信長や徳川家康も鷹狩りをこよなく好んでいた。
正法寺の近くには大原野神社があり、別称は「京春日」であることから、「きょうかすが」の「きょうか」で、逆の法則から「かきょう」となり、至輝の別名が示されている。また源氏物語の作者の紫式部は大原野神社を氏神と崇め、左大臣の藤原道長などの関連した人物や事柄、地名、近隣の寺院において、松平氏の祖である桓武天皇を原点とし、松田祖の分家後の今川国氏から武田晴信、織田信長、上杉輝虎、松田頼通、松平信綱、土佐光起、新井白石、石川雅望、平賀源内、大塩平八郎、福澤諭吉、大河内輝声、上野英三郎、吉野作造、芦田幸太郎、松田守、皇霞京に至るまで紐付けられている。
正法寺は、先ず「極楽橋」を渡らなければならない。つまり、至輝と合わせ、一二月二十三日の誕辰色は深紫色で、その別名は至極色であるから、「極楽橋」が至輝は霞京で一連の関連性を示している。したがって至極色は紫色であり、東向日は寺戸町であるから、大原野神社の紫式部や正法寺の徳川綱吉の母から高祖母の女系辿る戸田極子とのつながりを示す。
これからも吉野作造は徳川綱吉と重ねている意図が窺え、吉野作造は松田徳太郎で戸田氏重でもある事実が示されている。
大原野神社の主要関連
・紫式部・氏神のやしろ
・源氏物語の内容「日野岳の杉林は、雪に深く埋れんばかりだ。 今日は、都でも小塩山の松に、雪がちらちらと散り乱れて降っていることであろうか。」
・祀られている「春日神」は神鹿
・桓武天皇の鷹狩り(小塩山、奈良の御蓋山、春日山)
・千眼桜
・鯉沢池
・神相撲
補足する事柄
・戸田極子は陸奥亮子と共に「鹿鳴館の華」といわれた。
・春日山は奈良県の春日山原始林、新潟県の上越市春日山、兵庫県神崎郡福崎町の春日山がある。
・織田信長は相撲をこよなく愛し、各地から力士を集めて上覧相撲を催した。
バス停留所
JR向日町 - 阪急東向日駅 - 辰巳 - 向日市役所前 - 寺戸 - 東山 - 右京の里 - 上里 - 宇ノ山 - 灰方 - 大原野小学校前 - 南春日町
示す
神社である理由の一つとして「氏神のやしろ」は「社(やしろ)」であるから、右側のつくりは性的関連を示す土佐光起の「土」。左側のへんは「しめすへん」であるから、「左大臣」と皇霞京(実)そして、「真」の字を持つ親族と合わせ「真実を示す」意味である内容が読み解ける。また、「土」は右側にあるから右大臣の猪◯問題の出自偽造犯である東家出自の徳川秀忠と紐づけている。
生駒矢柄家
生駒矢柄家は猪◯問題の首謀者である猪熊教利の後継家にあたる。教利の嫡男の生駒正幸は、父が猪熊事件で処刑されたため、外祖父の生駒一正に引き取られ、成長後生駒河内と名乗る。諱が正幸で通称が河内となる。
正幸は生駒騒動で生駒家が改易となると、母の再嫁先であった津守氏(住吉大社)を頼り、摂津国に住した。
この首謀者の嫡男である生駒正幸の資料に大河内松平家及び後松田家は一連の関連性を持たせている。
先ず初めに次の人物から紐解く、上野英三郎、吉野作造、芥川龍之介、織田作之助。これらの四人の名から英作文と言う単語が現れ、英作文は左から右に文字を記述する意図が隠されている。記述する対象(大正)の文字は大河内から生駒河内を指し、松田幸太郎と大正(輝政)から「正幸」の文字を英作文と同じ横書きに記述する。
「正」左側(西)「幸」右側(東)、それに対して、「至」左側(西)「輝」右側(東)。これを踏まえ、芦田幸太郎の本籍は岸和田で日本の西側に位置し、それに付随して「至」は西である整合性がとれる。これらから「幸(至)」は西ではなく、東であることを訴えている。正幸が松平東家であれば、父の猪熊教利も松平東家の出自になる。
松田守の「守」は資料にある津守氏や「字」を匂わす。それと、吉田藩大河内松平家は吉田流弓術の祖の吉田重賢から生駒矢柄家の「矢」に紐付ける。つまり、織田信長(松田達頼)、大河内松平家、松平信綱、大河内輝声、上野英三郎、吉野作造(戸田氏重)、芥川龍之介、織田作之助、芦田幸太郎、松田守、三条至輝までつながり、同じ家系である関係性の証となる上、猪熊教利と強固な関連性を持たせている。補足として、織田信長は本能寺の変で初めに弓矢で応戦している。
「正」は大河内松平宗家の通字でもあるから、それを裏の松田宗家とし、「裏」つまり、裏工作である出自偽造を示している。
偽造犯は表すのは至輝に注目し、「輝」は太陽(日)で、東から「至」で西に至る自転を表し整合性が取れ、また信長の本能寺の変から自転とつながる天文学者の伊能忠敬が導き出され、松田徳太郎、芥川龍之介、高峰秀子と合わせ、偽造犯徳川秀忠を表す。偽造を表すのは「正幸」に至輝を当てはめると「輝(西)至(東)」となるので偽りとなり偽造を示す。
生駒矢柄家は同じ東家である事実を示す城井宇都宮氏と記述を合わせている。元々の城井氏は下野宇都宮氏な支流である関係性から、性的な表現の「下」と関係性を表している。至輝が知る限り、姓が上でその下に属柄の形式は穴山武田家とこの二つの家系だけと認識している。十三重石塔では、「浦野」と「下野」を重ねていると読み解ける。
したがって、「下野駒吉」となり、女性との噂が絶えなかった秀吉と重ねている。また、下野宇都宮氏の資料は左三つ巴とあり、一方別の資料は右三つ巴とする内容から虚偽の家紋を表記しているため、徳川秀忠が行った猪熊教利の出自偽造の裏工作と重ねている。
出自を示すものは自転と日の出で「出自」を表している。
「下」と言えば、皇霞京と桔梗紋である下間頼廉が紐付けされている。その内容は、山科言継が書いた日記『言継卿記』の永禄七年(1564)八月一日条に「刑部卿法橋頼廉」の名で記されている点。
天文学
天文学の自転と導く鍵となる内容は、大原野神社は藤原冬嗣が嘉祥三年(850)に遷座した神社から「冬至」。船から月を取ろうとし溺死した享年五十の夏目甕麿は織田信長との関連もあり「夏至」。祀られている「春日神」と第二十四代松田宗家伝承者の箕作秋坪から「春分」と「秋分」。二至二分は二十四節気の中の冬至、夏至、春分、秋分を合わせた名称からも窺え、二十四を二分すれば十二。つまり、二重にある松田宗家第十二代当主松田達頼は織田信長。
また、冬の星座は十二月ごろに東から見え始め、一月下旬には南の空に見える。このことから、松田頼冬は東家でその後裔にある分家し江戸幕府を開いた徳川家康で、星座の冬の大三角はオリオン座のベテルギウス、おおいぬ座のシリウス、こいぬ座のプロキオンを結んで形成され、星座の内容から生類憐れみの令を連想し、その徳川綱吉の資料には関連性を持たせる内容が複数あり、主として徳川綱吉像(土佐光起筆)。これらから第五代将軍徳川綱吉の時に東家出自から南家出自に変わった事実が読み解ける。それに合わせ伊藤博文を代役に立て、第五代内閣総理大臣三条輝耡(上野英三郎・農学博士)である事実が紐解ける。
木村蒹葭堂
資料にある木村蒹葭堂像の作者で谷文晁筆を示すものは、大河内松平家の人物系図にある沢村と並木で英作文の記述の読み方、左から読むと木村を示している。天文学の自転に倣い、西から東となるので虚偽を表し、松平東家である事実を示している。おそらく、猪熊教利と同じ松平東家である事実を示している。藤姓足利氏流木村氏の家紋は「三頭左巴」と資料ではあるが、「右三つ巴」が正しく、東家の出自が真実である内容が示されている。
それに合わせて、輝治と輝政も同じく、左から右と読めば「政治」となり、皇霞京と合わせれば、祖は日本の西側の山城国(京都)から東側の江戸(東京)に変わり政治を行っていた解釈となる。
◯◯兼◯◯であった官職を暗示し、内閣総理大臣からそれに類似する官職は、太政大臣兼左大臣であったことが示されている。
正月と言えば初日の出で、九番目の家系である大河内松平宗家の通字「正」を指し、初の太政大臣兼左大臣と実質的に初の総理大臣の血筋である事実を示している。皇霞京と後松田家の「ハツノ」から渡月橋と合わせ暗示している。これらから天文学も含め号冥月である意図も読め、祖が考えた号である証が示されている。冥月も関連性から己で考えた号である事実は付け加えておく。「冥」は世に公表されていない裏という意味となる。「月」は太陽の光で輝くから代役の意。
高市皇子
吉野作造が寄進した十三重石塔がある岡寺の所在地は奈良県高市郡明日香村であることから飛鳥時代の高市皇子と関連性を持たせている。高市皇子は、持統天皇の即位後に太政大臣になりとある内容から皇霞京と合わせ、祖の三条家や松田祖の太政大臣を示している。戦国の武将である鈴木重秀の別名鈴木孫一の「一」は「市」の表記の内容も含め、鉄砲(十)との関係性を持たせている。鉄砲と言えば織田信長の代名詞の一つであり、信長は長篠の合戦で鉄砲を組織的に使用し、当時最強である武田氏の騎馬隊を打ち負かし、その合戦において歴史的勝利を収めた。これにおいても至輝と信長を結びつけていることがわかる。
徳川宗家
徳川宗家は徳川家康から第四代家綱まで東家で、第五代の綱吉で京家。第六代、第七代は東家に戻り、第八代吉宗から十七代家正までは京家となる。これらから、クロスや反対などの鍵となる言葉や二匹の蛇が連想される。
上杉謙信と織田信長
長尾景虎 織田信長 → 長が名前全体の上下逆ある
石田三成 新井白石 → 石が名前全体の上下逆ある
吉野作造 徳川綱吉 → 吉が名前全体の上下逆ある
上野英三郎は上野原加藤氏の加藤虎景の諱を長尾景虎に上下逆に関連性を持たせている。
つながりである関連性や関係性を示し、上野英三郎は「上」から上杉謙信が直下の血筋である関係性を示す。直下の「下」の上下逆と重ねている点からその意図が窺える。
そして、織田信長は、上杉謙信の下である次の代であることを示している意図が読める。「直下」の言葉を引き出す高度な紐付けで、「未来」の言葉を連想される。
長尾景虎は上杉謙信の初名である。
次に、石田三成と新井白石の上下の「石」は、上杉謙信の直下の血筋に石田三成、同じく石田三成は長尾景虎に重ね、新井白石は上杉謙信の直系の血筋である意図を示している。
最後に、吉野作造と徳川綱吉の上下の「吉」は、松平三条家(松田宗家)が上で、徳川将軍家が下であることを示す意図が読める。おそらく上すぎたのであろう。
鎧
白石宗実との結び付けにより、松田信実は松平信綱であること、武田信玄、上杉謙信、織田信長、松平信綱、新井白石、そして上野英三郎、皇霞京がつながる。
白石氏の家祖は宗綱で宗実が著名な人物。白石宗実の資料を見ると鎧の写真があり、「也」の字を前立にした兜を着用していたとある。上杉謙信と武田信玄は鎧にむかで札(牛王宝印)を鎧に掘っていたと山科にある毘沙門堂の住職から聞いた。(むかで札は毘沙門天のお使いの百足を配した版画のお札。)上杉謙信と織田信長は銀の南蛮鎧も着用している。
よって、新井白石により、前述にある人物が家系でつながっていることを示している。
鎧を示す根源は平清盛の父貞盛が「天慶の乱」討伐の功により、朝廷から拝領した鎧に「対い蝶」の紋が記されていたので、その元を担ぎ、平家の紋章として、蝶紋を用いることのきっかけになった紋である。
この関連性から平家から山科家、若狭系松田宗家、大河内松平家、戸田家、皇霞京まで家系がつながる事実を示している。また、松平京家(南家)である内容も示している。
藤井徳昭
信実流の藤井徳昭との関係性から「藤井」という名を奈良松田家は主要に関連性を持たせ、松田徳太郎と三条輝照(大河内輝声)の関係性を示している。藤井徳昭の資料に「松田家の伝書」とあることから、大河内輝声の祖は松田家であった事実を示していると同時に「家」という表現から公家の家柄であったことが読み解ける。
丹後松田氏
資料から抜粋し、次の内容を取り上げる。
資料
天正十年、本能寺の変が起こり、織田信長が明智光秀に討たれると、丹後では細川氏が一色氏討伐の軍を起こした。
『丹哥府誌』に「松田山城守、天正十年夏五月、細川藤孝のために亡ぶ」とあり、一色氏とともに滅亡した ものであろう。
系図によれば、日ヶ谷城最後の城主は山彦四郎頼通で「館尽亡丹波国へ引退」とあり、鎌倉時代以来、 丹後国与謝郡に勢力を保った松田氏は没落の運命となった。
頼通の二男で日ヶ谷に残った福寿丸は、 のちに幸右衛門信実と改めて帰農、子孫は「七役庄屋」をつとめた。
そして、「宮津市」所収にある「丹後松田系図」は、 福寿丸の後裔にあたる松田氏に伝来したものであった。
資料の武家
一色氏[家祖 公深(?-1330)▽一色義有・左京大夫]
肥後細川氏[家祖 藤孝(1534-1610)▼細川藤孝・大蔵卿法印]
一色氏の家紋「木瓜に一文字」は後松田家系図にある「富一」や「幸一郎」で関連性を持たせている。
細川氏の家紋は九曜で、「細」は「糸へん」でもあり、戸田家の家紋は九曜であるから関連性を持たせている。過去の関連性から「糸」が必然と「木」に変わり、自ずと「後松田家」が見えてくる。
既に、織田信長、明智光秀をはじめ関連性が示されている。福澤諭吉の「福」は資料にある護衛船「咸臨丸」から福寿丸の「福」である意図が見え、船から夏目甕麿を経由し、織田信長や三条家第十七代三条至輝(皇霞京)へとつながる。福寿丸は関連された系図のつながりから松田信実の幼少名で、松田信実は松平信綱である条理が明確にある。福澤諭吉の雅号は三十一谷人からも第三十一代松田宗家伝承者の皇霞京へも紐付けされており、計算尽くされた意図的な関連性だと読み解ける。
また、雅号から三条至輝の雅号が関連性により予め決められている流れが読め、「冥月」の確証に至る。
このことから「松平家物語」を著書し、それにより世に広く認知される思惑があり、私の考えは祖と同じである証とも言える。
三条至輝
真の名称は三条至輝、別名皇霞京である紛れもない証となり、至輝の意味は太陽の自転を表すと同時に、この上なく輝く光の意味と捉え、号冥月はその反対を示す。
関連づけられた内容から松平信綱の天才ぶりがひしひしと伝わり、生駒矢柄家となるに至ったのは松平信綱の影響である事実が読み解け、恐るべし知恵伊豆。
その心は、将棋棋士の伊藤宗看から駒をとり、「いこまやがらけ」、「いやがらけ」、「いやがらせ」。
「至輝」の諱と「皇霞京」の別名、号「冥月」は、松平信綱が考えた名である真実が読み解ける。
皇霞京はどことなく、大河内輝声の面影がある。
吉野作造にも面影がある。
大河内輝声と吉野作造の架橋。
つまり、三条至輝。
三条至輝 別名 皇霞京 雅号 皇冥月
三条の家名
証明
松平京家頼済流
三河天野氏[家祖 景貞 著名な人物 天野虎景/藤秀]
三枝氏[家祖 守綱 著名な人物 三枝虎吉・土佐守]
上泉氏[家祖 信綱 著名な人物 上泉信綱・伊勢守]
三雲氏[家祖 実乃 著名な人物 三雲定持・対馬守]
尾張大橋氏[家祖 重長 著名な人物 大橋重長]
松平京家頼源流
大嶋氏[家祖 兼経(?)▽大島光義・弓の名手]
結果
松田宗家 始祖 八郎左衛門尉頼盛
極官 太政大臣兼左大臣
松田宗家第三代 松田頼貞(仁木頼章)
松田宗家第八代 松田頼済(北条早雲)
松田宗家第九代 松田信頼(毛利元就)
松田宗家第十一代 松田頼信(上杉謙信)
松田宗家第十二代 松田達頼(織田信長)
三条家 始祖 信綱
極官 太政大臣兼左大臣
三条家第二代 三条輝綱(土佐光起)
三条家第四代 三条輝祝(久留島義太)
三条家第六代 三条輝和(石川雅望)
三条家第十四代 三条輝成(吉野作造)
三条家第十六代 三条輝政(松田守)
三条家第十七代 三条至輝(皇霞京)
松平三条家歴代
人物一覧と主な政策
松田宗家 Matsuda-soke
公家(羽林家) 武家(別名)
松田宗家第一代 松田頼盛(1243 - 1282) [第一代松田宗家伝承者] 今川国氏
松田宗家第二代 松田頼直(1269 - 1329) [第二代松田宗家伝承者] 京極宗氏 佐渡守
松田宗家第三代 松田頼貞(1299 - 1359)権中納言 [第三代松田宗家伝承者] 仁木頼章 左京大夫
松田宗家第四代 松田頼近(1326 - 1370)権中納言 [第四代松田宗家伝承者] 六角氏頼 近江守
松田宗家第五代 松田頼源(1356 - 1400)権中納言 [第五代松田宗家伝承者] 大内義弘 左京権大夫
松田宗家第六代 松田頼仲(1397 - 1434)権大納言 [第六代松田宗家伝承者] 斯波義淳 左兵衛督
松田宗家第七代 松田善通(1423 - 1471)権大納言 正二位 [第七代松田宗家伝承者] 北畠教具 権大納言
松田宗家第八代 松田頼済(1458 - 1520)権大納言 [第八代松田宗家伝承者] 北条早雲 左京大夫
松田宗家第九代 松田信頼(1497 - 1571)太政大臣兼左大臣 正一位 [第九代松田宗家伝承者] 毛利元就 陸奥守
松田宗家第十代 松田家頼(1521 - 1573)検非違使別当 従三位 [第十代松田宗家伝承者] 武田信玄 信濃守
松田宗家第十一代 松田頼信(1530 - 1578)左大臣 従二位 [第十一代松田宗家伝承者] 上杉謙信 弾正少弼
松田宗家第十二代 松田達頼(1534 - 1582)太政大臣 正一位 [第十二代松田宗家伝承者] 織田信長 右大臣
松田宗家第十三代 松田頼勝(1567 - 1636)検非違使別当 従二位 [第十三代松田宗家伝承者] 伊達政宗 権中納言
松田宗家第十四代 松田頼通(1574 - 1607)左大臣 正二位 [第十四代松田宗家伝承者] 結城秀康 権中納言
三条家 Sanjo-ke
公家(清華家) 伝承者(別名)
三条家第一代 三条正永(1596 - 1662)太政大臣兼左大臣 [第十五代松田宗家伝承者] 松平信綱 侍従
三条家第二代 三条輝綱(1620 - 1672)太政大臣兼左大臣 [第十六代松田宗家伝承者] 土佐光起 絵師
三条家第三代 三条信輝(1660 - 1725)太政大臣兼左大臣 [第十七代松田宗家伝承者] 新井白石 朱子学者
三条家第四代 三条信祝(1683 - 1744)太政大臣兼左大臣 [第十八代松田宗家伝承者] 久留島義太 数学者
三条家第五代 三条輝高(1725 - 1781)太政大臣兼左大臣 [第十九代松田宗家伝承者] 本居宣長 国学者
三条家第六代 三条輝和(1750 - 1800)太政大臣兼左大臣 [第二十代松田宗家伝承者] 石川雅望 狂歌師
三条家第七代 三条輝延(1776 - 1825)太政大臣兼左大臣 [第二十一代松田宗家伝承者]平田篤胤 国学者
三条家第八代 三条輝承(1817 - 1839)権大納言兼検非違使別当 [第二十二代松田宗家伝承者]生田万 国学者
三条家第九代 三条輝徳(1820 - 1840)権大納言兼検非違使別当 [第二十三代松田宗家伝承者]矢野玄道 国学者
三条家第十代 三条輝充(1822 - 1862)権大納言兼検非違使別当 [第二十四代松田宗家伝承者]箕作秋坪 洋学者
三条家第十一代 三条輝聴(1827 - 1860)太政大臣兼左大臣 [第二十五代松田宗家伝承者]福澤諭吉 啓蒙思想家
三条家第十二代 三条輝照(1848 - 1882)太政兼左大臣 内務卿 公爵[第二十六代松田宗家伝承者]大河内輝声 知藩事
三条家第十三代 三条輝耡(1872 - 1924)内閣総理大臣 公爵 [第二十七代松田宗家伝承者]上野英三郎 農学者
三条家第十四代 三条輝成(1890 - 1940)内閣総理大臣 [第二十八代松田宗家伝承者]吉野作造 政治学者
三条家第十五代 三条輝治(19xx - 19xx)旧制中学校卒 [第二十九代松田宗家伝承者]芦田幸太郎 呉服店主
三条家第十六代 三条輝政(19xx - 20xx)新制中学校卒 [第三十代松田宗家伝承者] 松田守 技術者
三条家第十七代 三条至輝(19xx - ) 経営者 哲学者 [第三十一代松田宗家伝承者]皇霞京 設計者
松平大河内宗家 Matsudaira Okochi-soke
公家(羽林家) 別名
松平大河内宗家五代大河内正温(1725 - 1782)権中納言兼検非違使別当[父三条信祝・一男松平正升]平賀源内 本草学者
松平大河内宗家六代大河内正升(1742 - 1804)権中納言兼検非違使別当[父松平正温・一男松平正路]伊能忠敬 天文学者
松平大河内宗家七代大河内正路(1765 - 1808)権中納言兼検非違使別当[父松平正升・一男松平正敬]華岡青洲 外科医
松平大河内宗家八代大河内正敬(1794 - 1832)右大臣 太政大臣 [父松平正路・二男三条輝聴]大塩平八郎 儒学者
主な政策と成果
毛利元就 政治体制 毛利両川体制 朝廷・幕府との関係 女子の資産相続
織田信長 朝廷政策 宗教政策[比叡山を焼き討ち]
経済・都市政策[撰銭令、楽市・楽座令など] 軍事組織体制
松田頼通 朱印船制度の創設(1600-04)
松平信綱 幕藩体制の完成(1639-48) 島原の乱の鎮圧(1637-38)
慶安の変の鎮圧(1651) 承応の変の鎮圧(1652)
明暦の大火の対応(1657)
三条正永 禁教令(1612,1614) 武家諸法度(1615)
禁中并公家中諸法度(1615) 鎖国令(1633)
諸士法度(1635) 田畑永代売買禁止令(1644)
三条輝綱 寺院法度(1665)
三条信輝 生類憐みの令(1687)
三条信祝 正徳の治(1709-16) 享保の改革(1716-35)
三条輝高 諸経費削減(1750-71) 倹約令の発布(1751-83)
公事方御定書(1754) 御手伝普請(1757)
拝借金の停止(1771,1783) 上知令(1764,1769)
長崎会所の健全化(1742-48) 通貨政策
三条輝和 蝦夷地開発(1785-1821) 御用金令(1783-86)
貸金会所(1786) 寛政の改革(1787-93)
福澤諭吉 慶應義塾大学創設(1858)
三条輝聴 天保の改革(1841-43)
三条輝照 賛生館創設[九州大学病院](1867) 日本電信電話[NTT](1868)
師範学校創設(1872) 官設鉄道創設(1872)
内務省新設(1873) 徴兵令(1873)
お茶の水女子大学創設(1875) 広島大学創設(1874-1948)
札幌農学校創設[北海道大学](1876) 平民苗字必称義務令(1875)
海軍退恩令[公的年金の元](1875) 東京大学創設(1877)
京都保存計画(1882) 都道府県名の確立(1888)
上野英三郎 農業工学の創始者
三条輝耡 日清戦争指導者(1894-95) 日露戦争指導者(1904-05)
法案[航海奨励法・造船奨励法・民法・日本勧業銀行法]
京都大学創設(1897) 福岡医科大学創設[九州大学医学部](1903)
東北大学創設(1907) 奈良女子大学創設(1908)
九州大学創設(1911) 日本航空協会創設[帝国飛行協会](1913)
京城大学創設(1924)[高宗 ソウル大学創設(1946)]
吉野作造 大正デモクラシー(1912-23)
三条輝成 第一次世界大戦指導者(1916-18) シベリア出兵(1917)
対華外交(1917,18) 教育政策[新制中学校・高等学校の制定など](1919)
交通政策 選挙制度の改正
講和問題(1919) 名古屋大学創設(1939)
松田徳太郎 岡寺十三重石塔の寄進(1918)
三条至輝 第44代アメリカ合衆国大統領広島訪問の起因(2016)
北朝鮮とアメリカ合衆国初首脳会談の起因(2019)
新型コロナウイルス収束の手引き(2020)
黒色流行問題定義と抑制(2020-23)
環境問題定義と推進(2021)
地球温暖化の警鐘(2021)
ロシアによるウクライナ進攻戦争和睦の説得(2022)
社寺・教会の催し物の定義(2025)
祖の悪霊の浄化(2025)
内閣総理大臣
三条輝耡 第五代内閣(1892-1896)代役 伊藤博文 第十一代内閣(1901-1906)代役 桂太郎
第十二代内閣(1906-1908)代役 西園寺公望 第十三代内閣(1908-1911)代役 桂太郎
三条輝成 第十八代内閣(1916-1918)代役 寺内正毅 第十九代内閣(1918-1921)代役 原敬
第二十代内閣(1921-1922)代役 高橋是清 第二十一代内閣(1922-1923)代役 加藤友三郎
第二十二代内閣(1923-1924)代役 山本權兵衞 第二十三代内閣(1924-1924)代役 清浦奎吾
備考
・先代が至輝に話した武将は明智光秀と伊達政宗であり、親族に「政」の字が見える
ことから真の名前は「三条輝政」であることが窺え、
また、伝承者十三代目は伊達政宗であり、先代が第三十代なので、反対の定義から三と十入れ替わり第十三代政宗を示す。
・至「輝」、輝「政」、輝「治」、輝「成」から「輝く政治を成す」と言う言葉が現れ、「松田宗家輝く政治をなしてきた」となる。
・広島大学は1949年に新制大学として設置されたため旧広島大学とは連続性はない。
・札幌農学校は、札幌に置かれた高等教育機関で規模を拡大し、
北海道帝国大学、現在の北海道大学へと発展を遂げた。
・ソウル大学は、京城大学(京城帝国大学)と九つの専門学校を一つの国立大学
として高宗によって新設されたため、京城帝大との連続性はなく、京城帝大を
起源としない。
尚、理事会や一部の施設は京城帝大のものを流用しており、
一部の学部は日本統治時代の学校を前身としている。
・第44代アメリカ合衆国大統領バラク・オバマが広島訪問を起因となる根源は、至輝の詩にある2015年に書いた「争」という詩の内容により気づきをもたらされたもの思われる。
・ウクライナ戦争の和睦の説得は、その影響により一旦は両国の交渉が結束される
と見えたが、ロシア国側の態度が一変し、交渉は決裂し失敗に終えた。
結果的に両国の関係は改善には至らなかったが、両国及び世界の平和のために尽力した事実を明記している。
・三条輝照は未来の1888年に都道府県名の確立する内容を定め、三条輝成もそれに合わせ新制中学校・高等学校の制定は未来に行う決定事項を定めた政策である。
元号
正永 は 大正
輝照 は 昭和
輝成 は 平成
輝治 は 明治
輝政 は 安政と文政
極子 は 令和と昭和
つまりそれは、深紫
深紫とは
推古天皇十一年(603)、聖徳太子が制定した冠位十二階の制において、最上位を象徴する色には、常に紫が選ばれ、親王、内親王をはじめとした臣下の一位の公式の服名は『黒紫』または『深紫』であった。また「官位を極める」の意で『至極色』とも呼ばれる。
すなわち、三条至輝
特記重複名称
第一代 山科頼房 松田頼盛 今川国氏
第二代 松田頼直 佐々木宗氏 京極宗氏
第八代 松田頼済 伊勢盛時 北条早雲
第十代 松田家頼 武田晴信 武田信玄
第十一代 松田頼信 長尾景虎 上杉輝虎 上杉謙信
第十四代 松田頼通 松平秀朝 結城秀康
第十五代 松田信実 三条正永 松平信綱
第二十七代 松田輝耡 三条輝耡 上野英三郎 松田幸四郎
第二十八代 松田氏重 三条輝成 吉野作造 松田徳太郎(浦野)
第三十一代 松田実 三条至輝 皇霞京
過失先
吉野作造の指示に従い第三者が幸太郎の代から関連性を生活において補助するため裏で動いていた。
その影響により自然な人間関係は構築できず、そのストレスが常に付き纏う。
更に私こと至輝(実)の代では先祖のことは何も知らされておらず、第三者が至輝の人生で出会う人に接触し、先祖の関連付けを手伝う形で接触するため、
ただそれだけの付き合いや先入観などにより深い人間関係を構築することができない。
それよりに孤立し、「何故人とうまく付き合うことができないか。」などの疑問や不自然な環境から悪循環となり、多大なストレスを抱えることになる。
常に付き纏うスレストは、能力の低下などを招き、更に二十代後半には胃腸に穿孔という形で現れ、死に直面することになった。
また、現状も第三者による影響であることは明白にある。
美しい人間関係を築くには、先入観も何ない誰からも影響を受けない自然な出会いにある。それは誰もが日本という国に生まれたごく自然に持っている権利。それを破壊した行為にあたる。
原因の根源は吉野作造の指示であったのかもしれないが、四民平等の観点から公的機関により第三者に給料を支払われ動いていると見える。
つまり、第三者を雇用している機関に全ての過失がある。
「人間」という字から証明されているように、人の間と書くのだから人生において人間関係が壊されれば生きる意味はない。
現在至るまで全ての人生を潰されたと言って過言ではないだろう。賠償金は計り知れない。
哲学の観点から考えると、秘密のまま歴史があるのだから、無理に証を作ってまでそれを世に知らせる必要もなく、
悪影響の及ばない範囲で証をつくり、それで世に真意が伝わらなければ仕方のない話である。
穿孔による死亡率は10%〜30%程度とされる。私は一度倒れ、曲がりなりに仕事場から帰宅し、穿孔にもかかわらず夕食を食べ、その後類を見ない身震いするほどの激痛に襲われ、当時東京に移住し失業したばかりで金銭的に余裕がない状態でもあり、身に覚えのない症状であるため、頭のどこかに時間の経過と共に治ると考えていた。
そのため救急車を呼ぶのを躊躇していたが、やはりこれはおかしいと思い、意を決して電話をした。
その後、救急車に乗り込み、時間が数分ほど経つと痛みも和らぎ、救急車を呼ばなくてもよかったのではないかと考えた。
時間は午後十一時代ぐらいであろうか、救急車を呼ばすにそのまま就寝していれば、おそらくこの世にはいないだろう。
通常なら、家族に電話をし、相談するのが筋であるが、生まれながらにして誰かに相談する考えはない。
病院に到着し、検査を受け、緊急手術をしなければならい、失敗する確率は10%〜30%ほどあると言われ、手術の承諾書にサインした。この時、私は最悪もう死んでも良いと思うていた。
入院中お見舞いに来たのは当時働いていた派遣会社の担当者だけである。入院中、着替え等必要なため親と電話で話したが、無論、何故このようなことになったかは何も問いただすこともなく、私がどのような生活を送っているかも全く聞こうとする気配はない。愛がないのは確かなことである。
先祖が作り出した亡霊と言うべきか、生まれながらにしてそれと戦うていた。
疫病神兼死神であろう。
三条家・大河内松平家
自然血族分家系図
三条家始祖後裔
三条正永
松平信綱 ┬ 土佐光起 絵師[三条家・吉田藩]
│
├ 山鹿素行儒学者・軍学者[吉綱]
│
├ 菱川師宣 画家[伊織]
│
├ 山田宗徧 茶人[信定系]
│
├ 貝原益軒 本草学者・儒学者[高崎藩]
│
└ 関孝和 数学者[堅綱系]
三条家
松平信綱 ┬ 土佐光起 ─ 新井白石 ─ 久留島義太 ┐
└ 伊藤宗看(初代) │
┌────────────────────────────────────┘
│(松平輝高室)
└ 柳屋お藤
╟───┬ 石川雅望 ┬ 平田篤胤 ┬ 千葉周作
本居宣長
└ 与謝蕪村 └ 二宮尊徳 ├ 千葉定吉
└ 生田万
╔═══════════════════════════════╝
║
╚ 矢野玄道 ═ 箕作秋坪
三条信祝後裔
久留島義太 ┬ 池大雅 文人画家・書家[吉田藩大河内松平家]
│
├ 前野良沢 藩医・蘭学者[中川家]
│
├ 平賀源内 本草学者・地質学者[大河内松平宗家]
│
├ 狩野美信 絵師[江戸幕府御用絵師]
│
├ 司馬江漢 絵師・蘭学者[安藤家]
│
├ 笠森お仙 溝口直温室
│
├ 蔦屋お芳 松平信直室
│
└ 柳屋お藤 松平輝高正室(本居宣長)[三条家]
大河内松平宗家三条家
松平信綱 ─ 土佐光起 ┬ 新井白石 ─ 久留島義太 ┐
└ 都一中 │
┌───────────────────────────────────┘
│
└ 平賀源内 ┬ 伊能忠敬 ───────────────────┐
(本庄)
├ 山片蟠桃 │
(本庄松平)
├ 大黒屋光太夫 │
├ 菅江真澄 ─ 松平信弥 ─ 矢野玄道 │
└ 野村長平 │
┌────────────────────────────────────┘
│
└ 華岡青洲 ┬ 大塩平八郎 ┬ 土方歳三
├ 渡辺崋山 └ 福澤諭吉 ┬ 大河内輝声 ┐
├ 男谷信友 ├ 千葉佐那 │
├ 斎藤弥九郎 ├ 中沢琴 │
└ 桃井春蔵 ├ 根岸信五郎 │
├ 楠本高子 │
└ 陸奥亮子 │
┌───────────────────────────────────────┘
│
├ 上野英三郎 ┬ 吉野作造 ┬ 土浦信子(旧姓吉野)
│
├ 江木欣々 ├ 前田光世 ├ 織田作之助
│
├ 朝吹磯子 ├ 高村光太郎├ 鶴見和子
│
└ 芥川龍之介 ├ 林きむ子 ├ 芦田幸太郎 ─ 松田守 ┐
├ 柳原白蓮 ├ 川上哲治 │
├ 双葉山定次└ 鶴見俊輔 │
├ 沢村栄治 │
├ 並木路子 │
└ 高峰秀子 │
┌─────────────────────────────────────┘
│
└ 皇霞京
吉田藩大河内松平家
松平信綱 ─ 土佐光起 ─ 新井白石 ─ 久留島義太
┌──────────────────────────────────┘
│
└ 池大雅 ┬ 中川淳庵 ┬ 近藤重蔵 ┬ 遠山景元 ─┐
(杉浦) (本庄)
├ 亜欧堂田善 ├ 夏目甕麿 ├ 曲亭馬琴 │
(本庄) (津軽)
├ 小田野直武 ├ 鍵谷カナ ├ 黒川春村 │
(深井)
├ 谷文晁 ├ 富本豊雛 ├ 布田保之助 │
(遠藤) (五井松平)
└ 田能村竹田 ├ 難波屋きた ├ 窪田鎮勝 │
(大森)
├ 高しまひさ ├ 緒方洪庵 │
(阿部)
└ 綱女 └ 三浦乾也 │
┌─────────────────────────────────────┘
│
└ 桐野利秋 ═ 沖田総司
信定系大河内松平家
松平信綱 ─ 山田宗徧 ┬ 荻生徂徠
├ 井戸正明
├ 香川修徳 ─ 本居宣長
├ 石田梅岩
└ 賀茂真淵 ═ 楫取魚彦(堅綱系五代)
高崎藩系大河内松平家
松平信綱 ─ 貝原益軒
堅綱系大河内松平家
信綱の姉 ─ 大河内重綱 ┐
松平信綱 ─ 関孝和 ╤ 松尾芭蕉 ═ 海北若冲
└ 某 ─ 某 ─ 関盛時
┌──────────────────────────────┘
│
└ 寺田宗有 ─ 青木木米 ─ 仁阿弥道八 ┬ 沖田総司
└ 宮川香山 ┐
┌─────────────────────────────────────┘
│
└ 藪明山
本姓
松平四家
松平四家とは、松田六流の後継家の各本姓を表し、藤原四家にある「藤原南家」「藤原北家」「藤原京家」「藤原式家」と重ねた松田家の基礎となる家である。
六流とは、秀頼流、頼行流(貞寛系)、頼邦流、頼盛流(頼貞系)、秀経流、直頼流のことで、秀頼流と秀経流は「西家」、頼行流と直頼流は「北家」、頼邦流は「東家」、頼貞流(嫡流)は「南家(京家)」となる。
更に、頼盛流は家頼の代に松平氏を賜姓を朝廷から賜る経緯から上流下流に分けることができ、頼盛、頼貞系から信頼までの上流を「京家(上)」、家頼流以降の下流を「京家(下)」。
これら四家を松平四家と呼び、松平の松は松田家の松、平は平氏の意で、「松平」で「藤原北家四条流(閑院流)松田家」と「伊勢平氏維盛流松田家」を表す。
氏の代わりとして扱われ、松平は本姓となる。
京家の本姓の表記として、「京家(上)」と「京家(下)」は単に松平京家とする。
京家は、松田家嫡流の高崎藩大河内松平家の右京大夫に由来する。
したがって、「松平西家」「松平北家」「松平東家」「松平京家」となる。
補足として、西家、北家、東家、南家とした理由は、東西南北ではなく、中国の遊びである麻雀は、通常は時計回りの東南西北であるが、
東から始まるのではなく、西から始まる並びに変えたことが、藤原四家をはじめ、祖を示す関連された事柄から読み取れる。
本姓について、賜姓を賜る時期から、松田頼盛から頼済までは
「藤原北家閑院流徳大寺流庶流」になると想定されるが、
頼済流の島津家が賜姓として「松平」を将軍家から賜っていることから、
武家に関して、松田家の出自が全て松平四家の本姓となり、
公家もそれに準じて松平四家の本姓となる。
秀頼流/秀経流 桓武平氏流 → 松平西家
頼行流 藤原北家四条流 → 松平北家
頼邦流 藤原北家四条流 → 松平東家
嫡流 藤原北家閑院流 → 松平京家
例えば、西家である「秀頼流」「秀経流」は、
「松平西家」であり、秀頼、秀経は、「桓武平氏流」となり、
家の総称で「松平西家」と呼び、あくまでも家の名称である。
本姓は、次の代の貞秀は「松平西家秀頼流」、清定は「松平西家秀経流」となる。
武家の場合
現状は、西家や北家、東家の場合は、
流派が明らかでないので各家の始まりである次となる。
「松平西家秀頼流庶流」「松平西家秀経流庶流」
「松平北家頼行流庶流」「松平北家直頼流庶流」
「松平東家頼邦流庶流」
京家の場合は、全ての流派が明確に分かれていることから、
流派が明確でない場合は、「松平京家流庶流」とする。
例として、奈古野家の本姓は次になる。
「松平京家信頼流毛利氏庶流」
また、北条早雲の後裔にある北条家は北条早雲が北条氏の始祖であるため、
頼済流の本流であり、「松平京家頼済流嫡流」となる。
公家の場合
立入家は、現状系図が明確なので、「松平西家秀興流」であるが、
公家の場合、松平西家から初めの分家として「立入」を号した場合、
表記は、「松平西家立入流」となる。
無論、「松平西家秀興流」でも間違いはない。
基本、分家した家祖の趣旨や結果的な要素で定められると考える。
分家がある場合は本家と区別をつけるため、
本家が「松平西家立入流嫡流」となり、
分家が「松平西家立入流庶流」となる。
どのような括りで分家したかによりその流派の名称や、
本家の嫡流や支流、庶流の本姓が決まる。
藤原氏などに倣い、松平四家の本姓を定めるのは、
第三十一代松田宗家伝承者の至輝の仕事である。
以上を踏まえ、嫡流の頼通の本姓は「松平京家頼勝流」であり、
頼盛嫡流の総称が「松平京家」である。
「松平京家鹿苑寺流嫡流」は、信綱後裔の三条始祖の信綱からとなり、
吉田藩大河内家は信綱から直下の分家となるため、
「松平京家鹿苑寺流」の羽林家となる。
また「松平京家鹿苑寺流支流」と表記しても同じである。
このことから三条信綱は、鹿苑寺流の祖になる。
支流と庶流の違いは定かではないが、支流は本家を支える意味で共存し、
庶流は本家に囚わられない独立した家柄であると考える。
本姓に関して
読み方
げんじ
源氏
へいし
平氏
ふじわらし
藤原氏
たちばなし
橘氏
しょうへいし
松平氏
氏の松平氏は、姓「まつだいらし」と区別するため読み方は「しょうへいし」となります。関連性からも音読みであることがわかります。
また、名前の中に入る場合は公家形式で次のように読みます。
まつだいらさんじょうゆきてる
松平三条至輝
織田信長の正式名称は公家形式で記されたいるため、公家であった可能性が高いと考えます。
たいらのあそんおだかずさのすけさぶろうのぶなが
平朝臣織田上総介三郎信長
然し乍ら、武家形式と公家形式が混合した形で誤魔化しているとも見えます。
織田信長を公家形式で記すと次の通りです。真ん中をとる関連性の根源はここにあるように思えます。三郎は通称なので取らなくても良いと考えれば、官職の上総介はちょうど真ん中に当たります。また先代の関連付けにある三番目に当たります。
つまり、公家です。
かずさのすけたいらのあそんおだのぶなが
上総介平朝臣織田信長
豊臣秀吉の正式名称は武家形式で記されたいるため、通説通り武家です。
はしばとうきちろうかんぱくとよとみのあそんひでよし
羽柴藤吉郎関白豊臣朝臣秀吉
徳川家康の正式名称は武家形式で記されたいるため、通説通り武家です。
とくがわじろうさぶろうみなもとのあそんいえやす
徳川次郎三郎源朝臣家康
松平氏子孫の方々へ
松平四家の出自について
猪◯問題から、松平東家の印象が悪くなるように思いますが、松平四家のどの出自であろうが誇れる出自だと思うております。
今がどうであるかが重要で、生駒矢柄家や徳川宗家徳川秀忠の血筋の家系は、歴史上において、汚れた歴史を作った訳です。
一度ついた歴史の汚れは、この先決して消すことの出来ない過去であり、出自を語るということはそれら全てを背負うて生きるということになります。
猪熊教利と同じ東家である出自を恥じるべきことではなく、後ろめたい事実を隠し虚偽する行為に恥じるべきことであり、人生を全うに生きている家系ならばたとえ東家であろうと誇りに思い、今後の糧にしていただきたく存じます。
その根拠において、初めは松田頼盛という一人の人間から始まり、松平四家という基盤となる家が生まれた。元々は一つであり、どの家系においても現代までに子々孫々と多くの子孫を輩出し、家系として分かれ、命を繋いできた訳であるから、いつどこでどのように転落し、どのように上昇していくかわからない過去から今が大切であると言える。
祖において過ちを犯した家系はそれを逆に糧にして、社会に貢献し、払拭できる新たな家系をお築きください。
以上の理由から現代に存命する未出自の家系において、当方から突如無断で松平氏という出自を押し付けることは出来ない上、そんな軽いものではないとご理解ください。
したがって明治時代までは、三条輝成の指示の元関連性を持たせた経緯が想像つくため、また、幸太郎の代から政治の中心から離れた経緯もあり、当方で詮索するのは明治時代生まれまでの主な家系のみWeb上にて公開する。
公式の定義
未出自な家系を公式に認められるには、祖と紐付ける証が必要不可欠であり、それら必要最低限公の資料を示し、専門家の認証を受けることが大前提にある。専門家に見せれるが公示出来ない資料もあると考えるが、三条系図のように、少なくとも江戸末期、明治時代から現代に至るまで一つの線でつなぐ歴代五代分以上の系図は公示しなければならない。また合わせて、日本の伝統を守る意味でも家紋を公示する義務とし、新しく作成しても問題なく、その場合は変更した旨を明記する。それに付随して、家系の説明文を添えるまでが公式とする上での必須公開資料である。
個人的に松平四家の出自であることを自称し、個人的に周知するのは自由である。
活動の目的
当方は、松平家物語を著書し、世に松平氏(松平四家)の出自がある事実を知らせることが主要な目的であり、
現代に生きる子孫を見つけることを目的としない。あくまでも、松平氏という「氏」の本姓を世に認知させるためや歴史の真実を伝えるために活動するものとする。
現代に生きる子孫は、自発的に独自で調べるか専門家などに依頼し、松平氏の出自であるかを判断の上、称するか否かをお決めください。その上で、「自称」もしくは「公式」という選択肢がある流れとなります。
公式とする趣旨は、日本の伝統の文化の中で何代目と子孫に受け継がれてきた経緯を現代から示すと言う点で、公の場に開示する意味に於いて、規律ある家系の由緒を己から未来へと築いていく心意気を宣言をするようなものです。簡単に言えば、家系のブランディングのようなものです。その心構えのある方を対象に提示する資料において精査の上認証し、それ以外は干渉しない形です。
松平四家会
松平四家会は、自然な出会いの中から松平四家の出自と思われる当方とご縁がある方々のふれあい場。
自称で公式に認められない程度でも参加できます。
松平四家会は必ずしも形成され行われる会ではなく、自然な出会いの中で自発的に松平四家の出自だと称する方の中からそれらしき人物のみ入会できるため、未来に現存するのかは不透明である。
主題 大きな家族
活動内容
恒例行事 年一回
内容 お花見会
対象 全員(自由参加)
※既婚者の方は家族二名以上で参加
不定期行事 年一回(行われない場合もある)
内容 登山、スキー・スノーボード、マリンスポーツなど
対象 定員制(希望者抽選)
※既婚者の方は家族二名以上で参加
とは言え、いつになるやらの話ですので心の片隅にでも。
自己自発的
松平の出自の伝達の経緯は、当方から出会う人に尋ねるのは不自然であり、出会う人出会う人に訪ねて当方がそれをする利点は何があろうか。
想像すれば自ずと答えは出る。
松平家物語を出版し、公的に松平氏と言う出自の存在を知らせ、自発的に行動を起こさせた方が道理的である。系図などの資料の内容でしか見定めることができない。
認証の流れとして、独自の家系の資料や専門家などに調査した資料を提示していただければ、その内容を確認し、第三十一代松田宗家伝承者である皇霞京の認証を受ければ正式に認められ、最低限の資料を公示すれば公式的に松平四家の出自を語ることができる。
当方が認証をする上で初めは無償で行う可能性はあるが、途中で有償になることも想定する。
公示するにあたって、当方が未来に開く松平四家のWebサイトに掲載することも視野に入れ条件に入る予定。「公卿類別譜」というWebサイトを見たがその現代版のようなもの。
未来
公式的に松平氏を募ることを目的としていないのだが、将来的に増えれば、三条ブランドとの連携なども視野に入れて、日本の伝統を守り、有意義に人生を送りたいものだと考える。
また少し遠い未来の話ではあるが、寺院では宗教上内容にもよるが、独自のイベントは行えないため、有名寺院に見劣りしないぐらいの華橋院を三条の美術館として建築できればと考える。
三条の催し物や松平四家会のイベントなど、またこれまでにないショーを華橋院で成功に収めれば、より日本の文化に貢献できるのではないかと考える次第である。
「院」の意味は、「垣根をめぐらした建物。役所・寺・学校その他の機関。」とあるので必ずしも寺とは限らない。
留意点
社会にふさわしくない振る舞いに伴い、身に余る目に付く行動など、場合によっては公式的に扱はない。
社寺の第三者による宗教活動とは関係のない招待制のイベントに一度ならしも、二度参加するなども含む。また、当サイトの警告後に行うことも同等とする。
不自然にSNSなどで黒服を多用し悪影響を及ぼしかねない行動も同等とする。
三条ブランド
松平三条家
三条ブランドの設立を目指す。
ブランド名二つあり、仮称であるが、
かといって三条には変わりない。
将来的には和専門のブランドも見据える。
概念
受け継がれた魂は独自の魂と架橋し、時の世界観は無限の広がりを見せ、可憐で煌びやかな洗練された時の世界を投影する。その時々の洗練された愛らしい女性像を描く。また、洗練されたどこか愛らしい男性像を描く。
三条華 SANJO KA [FEMME](ブランド)
心象 「可憐」「優雅」「洗練」
三条京 SANJO KEI [HOMME](ブランド)
心象 「洗練」「優雅」「可憐」
対象 「鞄」「小物」「服」「時計・宝飾」「日用品・工芸」
三条六世界
平安 Heian 胡蝶 Kocho 時空 Jiku
幻想 Genso 天上 Tenjo 三条橋 Sanjokyo
平安世界(へいあんのせかい)
平らかな和む優雅でお淑やかな極楽の世界。
胡蝶世界(こちょうのせかい)
洗練された可憐な蝶が舞う煌びやかな世界。
時空世界(じくうのせかい)
普遍的に時の行き交う幽玄な世界。
幻想世界(げんそうのせかい)
非現実的且つ現実的な新しい夢の世界。
天上世界(てんじょうのせかい)
ゆったりと穏やかな時間が流れる心無き神々の世界。
三条橋世界(さんじょうきょうのせかい)
天上につづく三条橋が架かる橋その物の世界。
もう一つの世界
「三条京」を合わせれば、三条七世界となる。
継承の未来
第一代経営者 三条至輝(202x - )
第二代経営者 三条至永(20xx - )
第一代三条設計伝承者 皇霞京 文学者(202x - ) 冥月
第二代三条設計伝承者 皇京志郎 画家 (202x - ) 羅雪
※二代目は例にて架空の人物。
設立背景
この世の一つの選ぶ道。
「あなたは神を信じますか。」とあるが、信じる信じないは自由である。
この信じるとは、イエス・キリストを信じるか、信じないかの問いかけであるのではないだろうか。
であれば、信仰していなければ、当然答えは「信じない」となるだろう。
とは言え、「神とはなんぞや」と疑問に思うのでないか。
神はいると思えばいるのであって、いないと思えばいないのである。
私が今言えることは、神を感じることは幸せであると言うこと。
経験上、我が国では神を感じにくい世の中であると考える。
それは神道と言うものは根付いてはいるが、何故、神社にお参りに赴いているかは定かではないのは確かな事実と見受ける。
物が溢れ、その有り難みや価値が見えない故のことである。
従って、現代の世は幸せを感じ難い世の中であると言える。
三条ブランドはその価値を見出す、または見直す手伝いになれればと未来を見据えるブランドであることを念頭に置き、
少しでもより良き幸せを感じていただくことを信念に掲げ、この世の人々と共存し唯一無二のブランドであることを目指す。
つまり、何物にも変え難いブランドであり続ける。
当然ながら、他と同じものを作るのならば、特に必要なく創設する意義はない。
唯一無二であると思えるのだから創設するのである。
華橋院
華橋院とは、三条の本拠点となる場所。
昔と違い場所的なことを考慮すれば、小規模なものになる可能性を示唆する。
展示会場兼別荘が現段階での思考である。
三条の美術館みたいなもの。
三条の象徴としてあるようなもの。
三条ブランド
アイデンティティ
雪
白銀
月
世界
橋
三条ブランド
象徴タグ
ドアノッカーⅠ
ドアノッカーⅡ
三つ引き橋
八角
三条橋
分家一覧
公家
西家
秀頼
松平西家立入流
立入家・[家祖 宗康 立入宗継]
秀経
松平西家富小路流
富小路家・半家[家祖 道直 極官 非参議-宮内卿 家業 和歌・俳諧・医道・医業 富小路俊通 華族 子爵]
松平西家四辻流嫡流
四辻家・羽林家[家祖 季顕 極官 権大納言 四辻実茂 家業 神楽・和琴・箏 華族 子爵]
松平西家四辻流
中園家・羽林家[家祖 季定 極官 中納言 中園季定 華族 子爵]
西四辻家・羽林家[家祖 公碩 極官 近衛中将 家業 箏 西四辻公業 華族 子爵]
松平西家惟任流
明智家・羽林家[家祖 光秀 極官 日向守]
秀経(養子)
藤原北家閑院流滋野井支流
河鰭家・羽林家[継承 基秀 極官 参議 家業 有職故実 河鰭基秀 華族 子爵]
阿野家・羽林家[再興 実顕 極官 権大納言 阿野実顕 華族 子爵]
北家
松田家
藤原北家四条流山科庶流松田支流
豊前守系松田家・羽林家[家祖 頼行 極官 左衛門大夫 幕府官職 奉行衆 松田頼隆 後継 龍造寺家]
相模松田家・羽林家[家祖 頼重 極官 相模北条氏家老 松田頼隆 後継 直長(武家)]
龍造寺流
頼行
松平北家龍造寺流嫡流
東園家・羽林家[家祖 基教 極官 権大納言 東園基雅 華族 子爵]
松平北家龍造寺流
高野家・羽林家[家祖 保春 極官 権大納言 家業 神楽 高野保春 華族 子爵]
高丘家・羽林家[家祖 季起 高丘季昭 華族 子爵]
石野家・羽林家[家祖 基顕 家業 神楽 石野基顕 華族 子爵]
石山家・羽林家[家祖 師香 極官 大納言 家業 書道 石山基文 華族 子爵]
松平北家龍造寺流庶流
薮家・羽林家[家祖 嗣良 高倉篤麿 華族 子爵]
六角家・羽林家[家祖 益通 家業 書道・神楽 六角玄通 華族 子爵]
松田流
直頼
松平北家松田流嫡流
相模松田家[家祖 直長 官職 旗本 松田直長]
松平北家松田流庶流
桒原家・半家[家祖 長義 極官 権中納言 家業 紀伝道 桒原長義 華族 子爵]
頼行(養子)
藤原北家中御門流支流
持明院家・羽林家[継承 基久 家業 鷹匠・書道・神楽 持明院基久 華族 子爵]
東家
松田家
藤原北家四条流山科庶流松田支流
頼邦系松田家・羽林家[家祖 頼邦 極官 右大臣 松田頼直 後継 徳川家]
備前松田家・羽林家[家祖 元成 官職 侍所所司代(室町幕府) 松田元輝]
徳川流
頼邦
藤原東家徳川流嫡流
山本家・羽林家[家祖 勝忠 極官 参議 山本実庸 華族 子爵]
藤原東家徳川流
小倉家・羽林家[家祖 公根 極官 権大納言 小倉実起 華族 子爵]
猪熊教利流
生駒矢柄家[家祖 正幸 幕府職 高松藩士 生駒正幸]
京家
松田宗家
藤原北家閑院流徳大寺庶流
若狭守系松田家・羽林家[家祖 頼盛 極官 太政大臣兼左大臣 幕府官職 奉公衆 松田信頼 後継 三条家]
鹿苑寺流
信綱
松平京家鹿苑寺流嫡流
三条家・清華家[始祖 信綱 極官 太政大臣兼左大臣 三条輝照 華族 公爵]
松平京家鹿苑寺流
広幡家・清華家[家祖 忠幸 極官 内大臣 広幡豊忠 華族 侯爵]
七条家・羽林家[家祖 隆脩 極官 参議 七条光明 華族 子爵]
町尻家・羽林家[家祖 具英 極官 権中納言 町尻量輔 華族 子爵]
山井家・羽林家[家祖 兼仍 極官 治部卿・大蔵卿 家業 鞍の製造 山井兼文 華族 子爵]
吉田藩松平大河内家・羽林家[家祖 信興 極官 右京大夫 吉田藩主 松平信復 華族 子爵]
高崎藩松平大河内家・羽林家[家祖 輝耕 職業 貴族院議員 大河内輝耕 華族 子爵]
松平京家鹿苑寺流庶流
園池家・羽林家[家祖 宗朝 極官 権大納言 家業 有職故実 職業 奈良府知事 園池公静 華族 子爵]
桜井家・名家[家祖 兼里 極官 近衛中将 桜井兼里 華族 子爵]
松平京家鹿苑寺流千種嫡流
千種家・羽林家[家祖 有能 極官 権大納言 家業 有職故実 千種有維 華族 子爵]
松平京家鹿苑寺流千種支流
梅渓家・羽林家[家祖 季通 極官 参議 家業 有職故実 梅溪季通 華族 子爵]
東久世家・羽林家[家祖 博高 極官 権中納言 家業 有職故実 東久世通禧 華族 伯爵]
輝綱
松平京家鹿苑寺流伏原嫡流
伏原家・半家[家祖 賢忠 極官 少納言 家業 明経道 伏原宣明 華族 子爵]
松平京家鹿苑寺流伏原庶流
澤家・半家[家祖 忠量 極官 参議 澤為量 華族 伯爵]
松平京家鹿苑寺流勘解由小路嫡流
勘解由小路家・名家[家祖 資忠 極官 権大納言 家業 儒道 勘解由小路光宙 華族 子爵]
松平京家鹿苑寺流勘解由小路支流
外山家・名家[家祖 光顕 極官 権大納言 家業 和歌 外山光輔 華族 子爵]
長沢氏・武家[家祖 資親 官位 侍従 官職 高家旗本 長沢資祐 華族 子爵]
松平京家鹿苑寺流三条庶流
清水谷家・羽林家[家祖 実業 極官 権大納言 家業 能書・笙・能楽・神楽 清水谷実業 華族 伯爵]
植松家・羽林家[家祖 雅永 極官 参議 家業 華道 植松雅永 華族 子爵]
清岡家・半家[家祖 長時 極官 式部権大輔 家業 儒学 清岡長言 華族 子爵]
信祝
松平京家鹿苑寺流鷹司嫡流
鷹司家・皇別摂家[家祖 輔平 極官 関白 鷹司煕通 華族 公爵]
松平京家鹿苑寺流鷹司支流
高津氏・武家[家祖 時貞 官職 醍醐家の諸大夫 高津時貞]
松平京家鹿苑寺流三室戸嫡流
三室戸家・名家[家祖 誠光 極官 権中納言 職業 伊勢神宮大宮司 三室戸敬光 華族 子爵]
松平京家鹿苑寺流三室戸支流
日野流北小路家・名家[家祖 徳光 職業 伊勢神宮大宮司 北小路随光 華族 子爵]
松平京家鹿苑寺流三条庶流
藤井家・半家[家祖 兼充 極官 非参議 藤井行徳 華族 子爵]
壬生家・羽林家[家祖 俊平 極官 権中納言 壬生基修 華族 伯爵]
輝和
松平京家鹿苑寺流三条庶流
慈光寺家・半家[家祖 実仲 極官 非参議 家業 神楽 慈光寺実仲 華族 子爵]
今川流
頼盛
松平京家今川流嫡流
今出川菊亭家・清華家[家祖 兼季 極官 太政大臣 今出川兼季 華族 侯爵]
松平京家今川流庶流
上冷泉家・羽林家[家祖 為相 極官 権大納言 冷泉為相 華族 伯爵]
下冷泉家・羽林家[家祖 持為 極官 権大納言 冷泉為景 華族 子爵]
日野西家・名家[家祖 資国 極官 准大臣 日野西資国 華族 子爵]
竹内家・半家[家祖 氏治 極官 非参議 竹内季治 華族 子爵]
白川伯王家・半家[家祖 資邦王 極官 参議 白川雅朝王 華族 子爵]
松平京家橋本流嫡流
橋本家・羽林家[家祖 実澄 極官 大納言 笛 橋本実誠 華族 伯爵]
松平京家橋本流庶流
梅園家・名家[家祖 実清 極官 権中納言 梅園篤彦 華族 子爵]
松平京家吉田流嫡流
吉田家・半家[家祖 兼煕 極官 神祇大副 吉田兼煕 華族 子爵]
松平京家吉田流萩原嫡流
萩原家・半家[家祖 兼従 極官 非参議 萩原兼従 華族 子爵]
松平京家吉田流萩原支流
錦織家・半家[家祖 従久 極官 非参議 錦織教久 華族 子爵]
京極流
頼直
松平京家京極流嫡流
大宮家・羽林家[家祖 季衡 極官 右大臣 大宮季衡 華族 子爵]
松平京家京極流庶流
油小路家・羽林家[家祖 隆蔭 極官 権大納言 油小路隆蔭 華族 子爵]
柳原家・名家[家祖 資明 極官 権大納言 柳原紀光 華族 伯爵]
五条家[家祖 頼元 極官 勘解由次官 五条頼元 華族 男爵]
東坊城家・半家[家祖 道直 極官 権大納言 家業 紀伝道 東坊城和長 華族 子爵]
松平京家勧修寺流嫡流
勧修寺家・名家[家祖 経顕 極官 内大臣 勧修寺晴豊 華族 伯爵]
松平京家勧修寺流
甘露寺家・名家[家祖 藤長 極官 権大納言 甘露寺経元 華族 伯爵]
万里小路家・名家[家祖 仲房 極官 権大納言 万里小路充房 華族 伯爵]
穂波家・名家[家祖 経尚 極官 権中納言 穂波経尚 華族 子爵]
甘露寺流
堤家・名家[家祖 貞長 極官 権権中納言 堤広長 華族 子爵]
清閑寺流
池尻家・名家[家祖 共孝 池尻共孝 華族 子爵]
梅小路家・名家[家祖 定矩 梅小路定行 華族 子爵]
松平京家勧修寺流清閑寺嫡流
清閑寺家・名家[家祖 資房 極官 内大臣 清閑寺共房 華族 伯爵]
松平京家勧修寺流清閑寺支流
芝山家・名家[家祖 宣豊 極官 権大納言 芝山宣豊 華族 子爵]
頼貞
松平京家三条西流嫡流
三条西家・大臣家[家祖 公時 極官 内大臣 三条西実隆 華族 伯爵]
松平京家三条西流高松嫡流
高松家・羽林家[家祖 重季 家業 有職故実・和歌 高松公祐 華族 子爵]
松平京家三条西流高松支流
武者小路家・羽林家[家祖 公種 家業 歌道 武者小路実陰 華族 子爵]
松平京家三条西流
押小路家・羽林家[家祖 公音 家業 歌道・漢詩 押小路公音 華族 子爵]
松平京家西洞院流嫡流
西洞院家・半家[家祖 行時 極官 権大納言 歌人・医者 西洞院時慶 華族 子爵]
松平京家西洞院流
石井家・半家[家祖 行豊 極官 権中納言 石井行豊 華族 子爵]
松平京家西洞院流庶流
交野家・名家[家祖 時貞 極官 参議 交野政邁 華族 子爵]
長谷家・名家[家祖 忠康 極官 参議 長谷信篤 華族 子爵]
平松家・名家[家祖 時庸 極官 権大納言 議奏・院伝奏・日光例幣使 平松時庸 華族 子爵]
松平京家土御門流嫡流
土御門家・半家[家祖 有世 極官 非参議 土御門久脩 華族 子爵]
松平京家土御門流
倉橋家・半家[家祖 泰吉 極官 非参議 陰陽道 倉橋泰吉 華族 子爵]
松平京家高倉流嫡流
高倉家・羽林家[家祖 永季 極官 権大納言 高倉永家 華族 子爵]
松平京家高倉流
堀河家・羽林家[家祖 親具 極官 権中納言 堀河康親 華族 子爵]
松平京家高倉流堀河庶流
樋口家・羽林家[家祖 信孝 極官 参議 樋口信孝 華族 子爵]
松平京家藤波流
藤波家・半家[家祖 清世 極官 非参議 藤波景忠 華族 子爵]
北畠流
善通
松平京家北畠流嫡流
北畠家[家祖 教具 極官 中納言・伊勢国司 北畠具教 華族 男爵]
松平京家北畠流庶流
葉室家・名家[家祖 光忠 極官 権大納言 葉室光忠 華族 伯爵]
小島家[家祖 時秀 極官 侍従 小島時光]
信頼
松平京家惟住流嫡流
丹羽家・羽林家[家祖 長秀 極官 越前守 丹羽長秀 華族 子爵]
上杉流
頼信
松平京家上杉流嫡流
花園家・羽林家[家祖 公久 花園実章 華族 子爵]
松平京家上杉流
風早家・羽林家[家祖 実種 極官 権中納言 家業 茶道 風早実種 華族 子爵]
松平京家上杉流庶流
舟橋家・半家[家祖 秀賢 家業 侍読 舟橋清賢 華族 子爵]
裏辻家・羽林家[家祖 季富 極官 左近衛権中将 裏辻公愛 華族 子爵]
松平京家烏丸流嫡流
烏丸家・名家[家祖 豊光 極官 権大納言 烏丸光広 華族 伯爵]
松平京家烏丸流
裏松家・名家[家祖 資清 極官 有職故実 裏松光世 華族 子爵]
織田流
達頼
松平京家織田流嫡流
織田家・羽林家[家祖 信長 極官 太政大臣 織田信長 華族 子爵]
大河内流
慶勝
松平京家大河内流嫡流
松平大河内宗家・羽林家[家祖 正綱 極官 弾正忠 大多喜藩主 松平正綱 華族 子爵]
頼勝
松平京家藤谷流嫡流
藤谷家・羽林家[家祖 為賢 極官 権大納言 藤谷為賢 華族 子爵]
松平京家藤谷流
入江家・羽林家[家祖 相尚 家業 歌道 入江為守 華族 子爵]
愛宕家・羽林家[家祖 通福 極官 権大納言 華族 子爵]
松平京家野宮流嫡流
野宮家・羽林家[家祖 定逸 極官 権中納言 家業 有職故実 野宮定基 華族 子爵]
松平京家野宮流庶流
今城家・羽林家[家祖 定淳 家業 和歌・有職故実 今城定淳 華族 子爵]
頼通
松平京家近衛流嫡流
近衛家・皇別摂家[家祖 信尋 極官 関白 近衛忠房 華族 公爵]
松平京家近衛流庶流
水谷川家奈良華族[家祖 忠起 職業 春日大社宮司 水谷川忠起 華族 男爵]
松平京家一条流嫡流
一条家・皇別摂家[家祖 昭良 極官 関白 一条実輝 華族 公爵]
松平京家一条流庶流
醍醐家・清華家[家祖 冬基 極官 左大臣 醍醐忠敬 華族 侯爵]
養子縁家
藤原北家(養子)
藤原北家九条流嫡流
九条家・摂家[継承 兼孝 極官 関白 九条幸家 華族 公爵]
藤原北家閑院流嫡流
三条家・清華家[継承 公広 極官 関白太政大臣 三条実万 華族 公爵]
藤原北家閑院流
徳大寺家・清華家[継承 公維 極官 左大臣 徳大寺公城 華族 公爵]
藤原北家閑院流三条家庶流
姉小路家・羽林家[再興 公景 極官 権大納言 押小路公音 華族 伯爵]
藤原北家花山院流嫡流
花山院家・清華家[継承 定熙 極官 太政大臣 花山院忠長 華族 侯爵]
藤原北家花山院流難波家庶流
飛鳥井家・羽林家[継承 雅世 極官 権大納言 飛鳥井雅宣 華族 伯爵]
藤原北家花山院流飛鳥井家支流
藤枝家奈良華族[家祖 雅之 職業 興福寺清浄院住職家 藤枝雅之 華族 男爵]
藤原北家四条流嫡流(魚名流)
四条家・羽林家[再興 隆昌 極官 大納言 四条隆昌 華族 侯爵]
藤原北家四条流庶流
山科家・羽林家[継承 言行 極官 権中納言 家業 衣紋道・笙 山科言行 華族 伯爵]
藤原北家四条流
櫛笥家・羽林家[家祖 隆憲 極官 内大臣 櫛笥隆賀 華族 子爵]
八条家・羽林家[家祖 隆英 極官 権大納言 八条隆祐 華族 子爵]
藤原北家日野流嫡流
日野家・名家[再興 勝光 日野輝資 華族 伯爵]
藤原北家日野流庶流
豊岡家・名家[家祖 有尚 極官 大蔵卿 豊岡治資 華族 子爵]
藤原北家勧修寺流庶流
中御門家・名家[継承 資胤 極官 大納言 家業 儒学・有職故実 岡崎国良 華族 子爵]
坊城家・名家[再興 俊昌 極官 参議 坊城俊昌 華族 伯爵]
藤原北家勧修寺流庶流中御門庶流
岡崎家・名家[家祖 宣持 極官 非参議 岡崎国良 華族 子爵]
藤原北家水無瀬流嫡流
水無瀬家・羽林家[継承 兼成 極官 権大納言 水無瀬忠政 華族 子爵]
源氏(養子)
村上源氏久我流嫡流
久我家・清華家[継承 建通 極官 内大臣 久我建通 華族 侯爵]
村上源氏久我流庶流
岩倉家・羽林家[家祖 具堯 極官 権大納言 岩倉具視 華族 子爵]
梅渓家・羽林家[家祖 季通 極官 参議 梅渓季通 華族 子爵]
久世家・羽林家[家祖 通式 極官 権大納言 有職故実 久世通章 華族 子爵]
宇多源氏庭田流嫡流
庭田家・羽林家[継承 重親 極官 権大納言 庭田重親 華族 伯爵]
宇多源氏庭田流庶流
大原家・羽林家[家祖 栄顕 極官 権中納言 大原重徳 華族 伯爵]
五辻家・半家[継承 高仲 極官 非参議 五辻諸仲 華族 子爵]
宇多源氏綾小路流
綾小路家・羽林家[継承 俊資 極官 権中納言 五辻諸仲 華族 子爵]
分家一覧
武家
西家
秀頼流
東山氏[家祖 資秀]
中沢氏[家祖光敏 中沢光俊]
秀経流
加藤氏[家祖 清忠(1526-1564)▽加藤清正・侍従兼肥後守]
志道氏[家祖 広良 志道広良]
都筑氏[家祖 秀綱 都筑秀綱]
赤井氏[家祖 照景 赤井照景]
堀江氏[家祖 景用 堀江景用]
甲斐山県氏[家祖 昌景 山県昌景]
桑山氏[家祖 重晴 桑山重晴]
蜂屋氏[家祖 頼隆 蜂屋頼隆]
下間氏[家祖 宗仲(?)▽下間頼廉・法印]
小見川藩内田氏[家祖 正之 内田正信]
土佐坂本氏[家祖 太郎五郎 坂本龍馬]
弘前明田氏[家祖 利右衛門 改姓 明智]
沼田藩土岐氏[家祖 定政 土岐定政]
美濃肥田氏[家祖 頼衡 肥田貞徳]
妻木氏[家祖 弘定 妻木広忠]
佐竹氏[家祖 義人 佐竹義宣]
尾張佐治氏[家祖 信方 佐治一成]
松山氏[家祖 重治(15??)▼松山重治・多和城主]
福田氏[家祖 兼次 福田忠兼]
甲斐坂本氏[家祖 貞重 坂本貞次]
足立氏[家祖 基助(?-1579)▼足立基助・弥三郎]
生駒氏[家祖 親重 生駒親正 信長側室 生駒吉乃]
北家
頼行系
貞寛流
大友氏[家祖 義鑑(1502-1550)▽大友義鎮・左衛門督]
田原氏[家祖 親賢(?-1600)▽田原親賢・近江守]
立花氏[家祖 道雪(1513-1585)▼立花道雪・丹後守]
龍造寺氏[家祖 隆信 龍造寺隆信]
鍋島氏[家祖 清直 鍋島直茂]
倉町氏[家祖 長増 倉町信俊]
清田氏[家祖 鑑信 清田鎮忠)
吉弘氏[家祖 正賢 吉弘鑑理]
高橋氏[家祖 紹運 高橋紹運 改姓 立花]
吉岡氏[家祖 長増 吉岡長増]
臼杵氏[家祖 直時 臼杵鑑速]
稲垣氏[家祖 重恭 稲垣長茂]
大沢氏[家祖 基久(?)▽大沢基宿・兵部大輔]
直頼流
備前松田家[家祖 元成 松田輝元]
相模松田家[家祖 頼重 松田憲秀]
相模松田家[家祖 直長 松田直長]
秋月氏[家祖 種実 秋月種実]
甲斐飯富氏[家祖 虎昌 飯富虎昌]
下総千葉氏[家祖 輔胤 千葉孝胤]
円城寺氏[家祖 氏胤 円城寺信胤]
徳島氏[家祖 不明 徳島胤順]
陸奥浜田氏[家祖 基継 浜田広綱]
下総原氏[家祖 高胤 原胤信]
下総高城氏[家祖 高胤(?)▽高城胤吉・下野守]
丹波波多野氏[家祖 秀治(?-1579)▼波多野秀治・右衛門大夫]
東家
頼邦系
徳川宗家[家祖 家康(1543-1616)▼徳川家康・征夷大将軍]
結城氏[家祖 政朝(1479-1545)▼結城政朝・左近太夫将監]
常陸江戸氏[家祖 通高 江戸通雅 後継 水戸氏 ]
櫛橋氏[家祖 伊朝 櫛橋政伊 ]
藤原氏[家祖 弘綱 藤原弘綱 ]
神保氏[家祖 長誠 神保長誠 ]
三田氏[家祖 宗成 三田綱秀 ]
河尻氏[家祖 秀隆 河尻秀隆 ]
下野益子氏[家祖 唯正 益子勝清 ]
水谷氏[家祖 勝氏 水谷勝俊 ]
山川氏[家祖 基義 山川晴重 ]
魚住氏[家祖 景貞 魚住景固 ]
壬生氏[家祖 胤業 壬生綱房 ]
佐田氏[家祖 親景 佐田泰景 ]
藤姓木村氏[家祖 信綱 木村次郎左衛門 ]
下野宇都宮氏[家祖 成綱(1468-1516)▽宇都宮広綱・下野守]
城井宇都宮氏[家祖 正房(1478-1561)▽城井鎮房・常陸介]
小山氏[家祖 高朝 小山秀綱 ]
下野榎本氏[家祖 高綱 榎本高綱 ]
皆川氏[家祖 氏宗 皆川広照 ]
赤松氏[家祖 則村 赤松円心]
上月氏[家祖 景盛 上月景貞 ]
伊集院氏[家祖 久万(?)▽伊集院忠朗・大和守]
桑名藩鳥飼家[家祖 助右衛門(?)▼鳥飼助右衛門・桑名藩士]
小嶋氏[家祖 職鎮(?)▼小島職鎮・日宮城代]
京家
頼貞系頼盛嫡流
山科教房流
今川氏[家祖 国氏(1243-1282)▽今川義元・治部大輔]
頼盛流[1243-]
京極氏[家祖 佐々木宗氏(1269-1329)▽京極高氏・佐渡守]
佐々木氏流
尼子氏[家祖 高久(1363-1391)▽尼子晴久・民部少輔]
佐々木氏流
松下氏[家祖 高長(?)▽松下之綱・石見守]
佐々木加地氏流
竹俣氏[家祖 季綱(?)▽竹俣慶綱・三河守]
佐々木氏流
山中氏[家祖 頼貞(?)▽山中頼貞]
佐々木氏流
高島氏[家祖 高兼(1441-?)▽高島高俊・清水山城城主]
島津氏[家祖 貞久(1269-1363)▽島津義弘・参議]
喜入氏・島津氏流[家祖 季久(1532-1588)▽喜入忠続・摂津守]
新田氏[家祖 朝氏(1274-1318)▽新田義貞・贈大納言]
京都諏訪氏[家祖 頼重(?-1335)▽諏訪頼重・三河権守]
伊勢氏[家祖 俊継(?)▽伊勢貞国・室町幕府政所執事]
高遠氏・諏訪氏流[家祖 義光(?)▽高遠頼継・紀伊守]
一色氏[家祖 公深(?-1330)▽一色義有・左京大夫]
横山中条氏[家祖 頼平(?)▽中条長秀・中条流平法の創始者]
千本氏[家祖 義隆(1541-1615)▽千本義定・大和守]
高氏[家祖 重氏(?-1284)▽高師直・武蔵守]
福屋氏[家祖 兼広(?)▽福屋隆兼・本明城主]
丹下氏[家祖 不明(?)▽丹下盛知・備中守]
沼本氏[家祖 不明(?)▽沼本房家・備中守]
牛尾氏[家祖 真直(?)▽牛尾幸清・遠江守]
常盤氏[家祖 時範(1264-1307)▽常盤範貞・評定衆]
楠木氏[家祖 正遠(?)▽楠木正成・河内判官]
近江熊谷氏[家祖 直忠(?)▽熊谷直純・室町幕府奉公衆]
肥後菊池氏[家祖 隆盛(?)▽菊池能運・肥後守]
福山氏[家祖 不明(?)▽福山茲正・八橋城主]
赤田氏[家祖 備(?)▽赤田隆・隼人正]
高城氏(落合氏流)[家祖 重定(?)▽高城重雄・鎮西引付衆]
佐々木氏流
鰐淵氏[家祖 不明(?)▽鰐淵吉広・将監]
深田氏[家祖 信輝(?)▽深田武雄・政治家]
頼直流[1269-]
仁木氏[家祖 頼章(1299-1359)▼仁木頼章・左京大夫]
仁木氏[家祖 義長(1300-1376)▼仁木義長・右京大夫]
足利氏[家祖 尊氏(1305-1358)▽足利義満・太政大臣]
斯波大崎氏[家祖 直持(1327-1383)▽大崎義直・左京大夫]
大崎氏流
雫石氏[家祖 不明(?)▽雫石詮貞・天真正伝香取神道流]
斯波最上氏[家祖 兼頼(1316-1329)▽最上義光・右京大夫]
石橋氏[家祖 和義(?)▼石橋和義・左衛門佐]
桃井氏[家祖 貞頼(?)▽桃井直常・弾正大弼]
足利氏流
吉良氏[家祖 満義(?-1356)▽吉良満義・左京大夫]
足利氏流
上野氏[家祖 義弁(?)▽上野信孝・民部大輔]
金光氏[家祖 不明(?)▽金光宗高・佐渡守]
二橋上杉氏[家祖 重顕(?)▽上杉朝定・修理大夫]
山内上杉氏[家祖 憲顕(1306-1368)▼上杉憲顕・民部大輔]
上杉朝定流
扇谷上杉氏[家祖 顕定(1306-1368)▽上杉持朝・修理大夫]
上杉朝定流
八条上杉氏[家祖 朝顕(?)▽八条成定・修理大夫]
常陸小田氏[家祖 治久(1300-1353)▽小田氏治・大名]
薩摩本田氏[家祖 恒文(?)▽本田親貞・下野守]
日根野氏[家祖 時盛(?)▽日根野弘就・美濃本田城主]
冨樫氏流
坪内氏[家祖 頼貞(?)▽坪内勝定・松倉城主]
信濃村上氏[家祖 義日(?-1333)▼村上義日・左馬権頭]
雨宮氏[家祖 義衡(?)▽雨宮家次・十兵衛]
山名氏[家祖 時氏(1303-1371)▽山名祐豊・右衛門督]
冨樫氏[家祖 泰家(?)▽富樫晴貞・加賀介]
安冨氏[家祖 照之(?)▽安富盛定・筑前守]
山吉氏[家祖 長久(1289-1355)▽山吉豊守・丹波守]
富田氏[家祖 義泰(?)▽富田秀貞・大夫判官]
高氏[家祖 師重(?-1343)▽高師泰・和泉守護]
高氏流
国司氏[家祖 元詮(?)▽国司元相・飛騨守]
高氏流
南氏[家祖 惟宗(?)▽南宗継・遠江守]
富士氏[家祖 時棟(?)▽富士信忠・兵部少輔]
足利氏流
三渕氏[家祖 持清(?)▽三淵藤英・大和守]
細川吉兆家[家祖 頼春(1304-1352)▽細川頼之・相模守]
安芸宍戸氏[家祖 朝家(1300-1363)▽宍戸元家・左衛門尉]
小幡氏 上野国[家祖 行頼(?)▽小幡信真・国峯城主]
天羽氏[家祖 不明(?)▽天羽源鉄・手子丸城主(軍師)]
江口氏[家祖 不明(?)▽江口光清]
生口氏[家祖 惟平(?)▽生口景守・刑部丞]
頼貞流[1299-]
六角氏[家祖 氏頼(1326-1370)▼六角氏頼・近江守]
伊庭氏[家祖 満隆(?)▽伊庭貞隆・出羽守]
朽木氏[家祖 経氏(?)▽朽木元綱・河内守]
筑紫氏[家祖 経重(?)▽筑紫広門・左馬頭]
間宮氏[家祖 景信(?)▽間宮康俊・豊前守]
三好宗氏[家祖 義長(?-1386)▽三好長慶・修理大夫]
朝倉氏[家祖 氏景(1339-1405)▽朝倉義景・左衛門督]
伊勢氏[家祖 貞信(?)▽伊勢貞国・左衛門督]
信夫佐藤氏[家祖 基清(?)▼佐藤基清]
十河氏[家祖 吉保(?)▽十河景滋・讃岐国十河城主]
阿波篠原氏[家祖 不明(?)▽篠原長房・上桜城主]
天羽氏[家祖 不明(?)▽天羽久利・出羽守]
諏訪安倍氏[家祖 信真(?)▽安部信盛・下摂津守]
伊賀服部氏[家祖 保俊(?)▽服部正成・石見守]
南条氏[家祖 貞宗(1339-1391)▽南条元続・伯耆守]
頼近流[1326-]
大内氏[家祖 義弘(1356-1400)▼大内義弘・左京権大夫]
牛久山口氏[家祖 持盛(1397-1433)▽山口重政・但馬守(星崎城主)]
陶氏[家祖 弘賢(?)▽陶晴賢・尾張守]
冷泉氏[家祖 興豊(?)▽冷泉隆豊・大夫判官]
頼源流[1356-]
武衛斯波家[家祖 義淳(1397-1434)▽斯波義敏・左兵衛督]
高水寺斯波家[家祖 詮高(1476-1549)▼斯波詮高・養父・斯波詮重]
石見吉見氏[家祖 詮頼(?)▽吉見頼興・三河守]
安房里見氏[家祖 家兼(?)▽里見義堯・刑部少輔]
平手氏[家祖 秀家(?)▽平手政秀・中務丞]
河野氏流
尾張林氏[家祖 通村(?)▽林秀貞・但馬守]
岩倉遠山氏[家祖 頼景(?)▽遠山景任・大和守]
堀越氏流
瀬名氏[家祖 堀越範将(?)▽瀬名氏貞・陸奥守]
陸奥黒川氏[家祖 氏直(?)▽黒川晴氏・安芸守]
白鳥氏[家祖 義久(?)▽白鳥長久・白鳥城主]
会津松本氏[家祖 輔行(?)▽松本氏輔・白鳥城主]
由良氏[家祖 貞氏(?)▽由良国繁・信濃守]
渋川氏 九州探題系[家祖 満直(1390-1434)▽渋川尹繁・右兵衛佐]
天堂氏[家祖 頼直(?)▽天童頼貞・和泉守]
横瀬氏[家祖 貞氏(?)▽横瀬泰繁・信濃守]
出羽氏[家祖 実祐(?)▽出羽祐盛・民部大輔]
岩倉織田氏[家祖 常松(?)▽織田信賢・伊勢守]
清洲織田氏[家祖 常竹(?)▽織田達勝・大和守]
加賀本多氏[家祖 正明(?)▽本多正信・佐渡守]
飛騨三木氏[家祖 正頼(?)▽三木直頼・右兵衛督]
姉小路氏[家祖 良頼(1520-1572)▽姉小路頼綱・大納言(自称)]
奥平氏[家祖 定家(?)▽奥平信昌・美作守]
岩津松平氏[家祖 親氏(?-1414)▽松平信光・和泉守]
原田氏[家祖 種義(?)▽原田隆種・弾正少弼]
児玉党系本庄氏[家祖 信明(?-1490)▼本庄信明・宮内少輔]
四宮氏[家祖 不明(?)▽四宮源蔵]
須賀川二階堂氏[家祖 為氏(1444頃)▽二階堂照行・信濃守]
神戸氏[家祖 盛澄(?)▽神戸具盛・下総守]
大道寺氏[家祖 義清(?)▽大道寺政繁・駿河守]
片岡氏[家祖 直綱(?)▽片岡光綱]
関氏 平性[家祖 盛治(?)▽関一政・長門守]
内山氏[家祖 不明(?)▽内山吉明]
大嶋氏[家祖 兼経(?)▽大島光義・弓の名手]
豊田氏[家祖 頼英(1403-1490)▼豊田頼英・下野公]
飯篠氏[家祖 家直(1387-1488)▽飯篠家直・天真正伝香取神道流]
頼仲流[1397-]
磯野氏[家祖 員友(?)▽磯野員昌・丹波守]
庄林氏[家祖 不明(?)▽庄林一心・隼人佐]
和賀氏[家祖 定儀(?)▽和賀忠親・主馬祐]
三河石川氏[家祖 政康(?-1502)▽石川数正・伯耆守]
近江浅井氏[家祖 重政(1423-1489)▽浅井長政・佐渡守]
足利氏流柴田氏[家祖 義勝(?)▽柴田勝家・修理亮]
板垣氏[家祖 信能(?)▽板垣信方・板垣駿河守(武田四天王)]
東条氏[家祖 国氏(?-1476)▼東条国氏・近江守]
蜂須賀氏[家祖 政員(?)▽蜂須賀正勝・修理大夫]
美濃横山氏[家祖 兼長(?)▽横山長隆・加賀八家横山家初代]
青山宗氏[家祖 光教(?)▽青山忠俊・伯耆守]
高梨氏[家祖 政高(1418-1468)▽高梨政頼・刑部少輔]
平岩氏[家祖 氏重(?)▽平岩親吉・主計頭]
三浦氏[家祖 高救(?)▽三浦義同・陸奥守]
三浦氏流
安房正木氏[家祖 通綱(?)▽正木通綱・大膳亮]
三浦氏流
駿河安西氏[家祖 実胤(?)▽安西能胤・但馬守]
佐久間氏[家祖 安盛(?)▼佐久間信盛・鳴海城主]
安房安西氏[家祖 重朝(?)▽安西景綱・弾正少弼]
益田氏[家祖 兼堯(1420-1485)▼益田兼堯・越中守]
三河大久保氏[家祖 宇津忠茂(1476-1547)▽大久保忠世]
薬師寺氏[家祖 元長(?-1502)▽薬師寺元一・備後守]
梅北氏[家祖 守兼(?)▽梅北国兼・宮内左衛門尉]
比内浅利氏[家祖 義成(?)▽浅利則頼・中興の祖]
善通流[1423-]
北条氏 小田原[家祖 盛時(1456-1519)▽北条氏康・左京大夫]
三吉氏[家祖 致高(?)▼三吉致高・安房守]
稲葉氏[家祖 通則(1465-1525)▽稲葉良通・三位法印]
稲葉氏流
牧村氏[家祖 利貞(1546-1593)▼牧村利貞・兵部大輔]
穴山武田氏[家祖 信介(?)▽穴山信君・玄蕃頭]
近江吉田氏[家祖 重賢(1463-1543)▼吉田重賢・下野守(弓術の祖)]
平戸松浦氏[家祖 弘定(1466-1515)▼松浦弘定]
新発田氏[家祖 長経(?)▽新発田重家・因幡守]
本郷氏[家祖 詮泰(?)▽本郷信富・美作守]
三河戸田氏[家祖 宗光(?)▽戸田宗光]
薩摩山田氏[家祖 有俊(?)▽山田有信・越前守]
鵜殿氏[家祖 長善(?)▽鵜殿長持・長門守]
土肥富永氏[家祖 実吉(?)▽富永直勝]
富永氏流
猪俣氏[家祖 邦憲(?-1605)▼猪俣邦憲・能登守]
美作佐藤氏[家祖 沢清(?)▼佐藤沢清]
近江蒲生氏[家祖 貞秀(1444-1514)▽蒲生定秀・左兵衛大夫]
鮎川氏[家祖 通長(?)▽鮎川清長・信濃守]
岩松氏[家祖 尚純(1461-1511)▼岩松尚純・治部大輔]
本庄氏(秩父党系)[家祖 長員(?)▽本庄繁長・越前守]
因幡三上氏[家祖 政実(1461-1511)▽三上経実・兵庫頭]
寒川氏[家祖 元家(?)▽寒川元隣・石馬頭]
遠藤氏[家祖 盛胤(?)▼遠藤慶利・但馬守]
税所氏[家祖 篤重(1466頃-?)▽税所篤好]
江川氏[家祖 英元(?)▽江川英長・太郎左衛門]
成田氏[家祖 顕泰(1465-1524)▽成田氏長・下野烏山藩主]
備前明石氏[家祖 景行(?)▽明石全登・左近将監]
一色丹羽氏[家祖 氏員(?)▽丹羽氏勝・三河国伊保城主]
上州長野氏[家祖 乙業(?)▽長野業正・信濃守]
浦上氏[家祖 則永(?)▽浦上村宗・美作守]
檜山安東氏[家祖 政季(?-1488)▽安東愛季・侍従 後継 秋田家]
近江山崎氏[家祖 重家(?)▽山崎片家・下志摩守]
今井氏[家祖 信慶(?)▽今井信元・甲斐国逸見の領主]
安東氏庶流
森山氏[家祖 季定(?-1546)▽森山季定・飛騨守]
黒田氏[家祖 高政(?-1523?)▽黒田孝高・勘解由次官]
新庄氏[家祖 直寛(?)▽新庄直頼・宮内卿法印]
笠間氏[家祖 不明(?)▽笠間綱家・通称 孫三郎]
長谷川氏[家祖 正宣(1427-1513)▼長谷川正宣・法永居士]
薩摩大久保氏[家祖 仲兵衛(?)▽大久保利通・大蔵卿]
伊王野氏[家祖 資真(?)▽伊王野資信・下総守]
植村氏[家祖 氏義(?)▽植村氏明・出羽守]
杉氏[家祖 重友(?)▽杉重矩・豊前守護代]
島村氏[家祖 景貫(?)▽島村盛実・弾正左衛門尉]
九戸氏[家祖 光政(?)▽九戸政実・左近将監]
上原氏[家祖 賢家(?-1496)▽上原元秀・紀伊守]
石井氏[家祖 忠義(?)▽石井忠繁・石見守]
尾張大野氏[家祖 治定(?)▽大野治長・修理大夫]
平野氏[家祖 宗長(?)▽平野長泰・遠江守]
川瀬氏[家祖 不明(?)▽川瀬六郎左衛門・修理大夫]
甲州小幡氏[家祖 小畠日浄(?-1514)▽小幡昌盛・豊後守]
武蔵太田氏[家祖 資家(?-1522)▽太田資正・民部大輔]
頼済流[1456-]
大江毛利氏[家祖 元就(1497-1571)▼毛利元就・陸奥守]
越後北条氏[家祖 高広(1517-1587)▼北条高広・安芸守]
奈古屋氏 ・毛利氏流[家祖 元堯(?)▼奈古屋元堯・加賀守]
上山氏[家祖 実広(?)▽上山重広・加賀守]
口羽氏[家祖 通良(1513-1582)▼口羽通良・下野守]
長尾氏[家祖 房長(1494-1552)▽長尾政景・越前守]
安芸香川氏[家祖 元景(?)▽香川光景・侍従]
板倉氏[家祖 頼重(?)▽板倉勝重・侍従]
宮本氏[家祖 不明(?)▽宮本玄信・二天一流兵法の開祖]
米沢上杉氏[家祖 景勝(1556-1623)▼上杉景勝・権中納言]
越後本庄氏[家祖 房長(?-1540)▽本庄繁長・越前守]
上条上杉氏[家祖 政繁(1553-1643)▼上条政繁・織部正]
柿崎氏[家祖 重家(?-?)▽柿崎景家・和泉守]
鳥居氏[家祖 忠吉(?-1572)▽鳥居元忠 戦国時代]
長宗我部氏[家祖 兼序(?-1518)▽長宗我部元親・侍従]
美濃斎藤氏[家祖 利政(1494-1556)▼斎藤道三・山城守]
越後中条氏[家祖 藤資(1492-1568)▼中条藤資・七手組大将]
尾張岡田氏[家祖 重篤(?)▽岡田重善・長門守]
酒井氏 宗家[家祖 忠親(1463?-1536?)▽酒井忠次・左衛門督]
森川氏[家祖 堀場氏兼(?)▼森川氏俊・通称 金右衛門]
岡野氏[家祖 田中泰行(?-1579)▽板部岡江雪斎・外交僧]
佐藤氏流
岸氏[家祖 信周(?-1565)▼岸信周・佐渡守]
池田氏[家祖 恒利(?-1538)▼池田恒興・紀伊守]
相良氏[家祖 晴広(1513-1555)▽相良義陽・修理大夫]
村尾氏[家祖 重全(?)▽村尾重侯]
江馬氏[家祖 時盛(不明-1573)▼江馬輝盛・常陸介]
三河渡辺氏[家祖 氏綱(1489-1563)▽渡辺守綱・槍半蔵]
三雲氏[家祖 実乃(?)▽三雲成持・対馬守]
尾張大橋氏[家祖 重長(?-1565)▼大橋重長]
十市氏[家祖 遠忠(1497-1545)▼十市遠忠・兵部少輔]
望月氏[家祖 盛昌(?)▽望月信雅・遠江守]
伊豆清水氏[家祖 綱吉(?)▽清水康英・伊豆水軍]
伊丹氏[家祖 雅頼(?)▽伊丹康直・大隅守]
美濃安藤氏[家祖 守就(1503-1582)▽安藤定治・西美濃三人衆]
安藤氏流
土佐宿毛山内氏[家祖 可氏(1571-1629)▽山内定氏・左衛門佐]
安藤山内氏流
伊賀氏[家祖 氏理(1817-1889)▼伊賀氏理・左衛門佐]
成瀬氏[家祖 正頼(?)▽成瀬正一・吉右衛門]
向井氏[家祖 正重(?)▽成瀬正綱・兵庫助]
筒井氏[家祖 順興(1484-1535)▽筒井順慶・権少僧都]
金森氏[家祖 定近(?)▽金森長近・飛騨守]
前田氏[家祖 利隆(?)▽前田利家・権大納言]
三河山本氏[家祖 晴幸(1493-1561)▼山本晴幸・軍師]
篠原氏[家祖 一計(?-1549)▽篠原長重・加賀藩士篠原家の祖]
氏家氏[家祖 直元(1512-1571)▼氏家直元・常陸介]
毛利氏流
小早川氏[家祖 隆景(1538-1593)▼小早川隆景・中納言]
乃美氏[家祖 隆興(1513-1598)▽乃美景興・弾正忠]
朝比奈氏[家祖 泰能(1497-1557)▽朝比奈泰朝・備中守]
後蒲池氏[家祖 鑑久(1494-1543)▽蒲池鑑盛・近江守]
佐野氏[家祖 秀綱(1472-1546)▼佐野秀綱・越前守]
佐野氏流
桐生氏[家祖 親綱(?-1598)▼桐生親綱・又次郎]
伊予西園寺氏[家祖 実充(1510-1565)▽西園寺公広・西園寺十五将]
片山氏[家祖 康隆(?)▽片山康元・兵内進]
佐伯氏[家祖 惟治(?)▽片山康元・兵内進]
吉政系田中氏[家祖 嵩弘(?)▽田中吉政・侍従]
丹波酒井氏[家祖 頼重(?)▽酒井信政・筑後守]
岡部氏[家祖 久綱(?-1547)▽岡部正綱・右衛門尉]
不破氏[家祖 光治(?-1583)▼不破光治・河内守]
伊奈氏[家祖 忠基(?)▽伊奈忠次・備前守]
丹波上林氏[家祖 氏忠(?)▼上林氏忠・加賀守]
大藤氏[家祖 信基(?)▼大藤信基・田原城主]
葛西氏[家祖 晴胤(1497-1555)▼葛西晴胤・左京大夫]
深谷長江氏[家祖 盛景(?)▼長江勝景・月鑑斎]
美濃佐藤氏 加茂郡伊深[家祖 忠能(?)▼佐藤忠能・紀伊守]
三河牧野氏[家祖 成富(?)▽牧野保成・出羽守]
笠原氏[家祖 信為(1543-1608)▼笠原信為・越前守]
島氏[家祖 清国(?)▽島左近・越前守]
栗山氏[家祖 利宗(?)▽栗山利高・黒田八虎]
久留島氏[家祖 村上康吉(?)▼久留島通春・丹波守]
柳生氏[家祖 家厳(1497-1585)▽柳生宗厳・但馬守]
信濃飯田堀氏[家祖 利房(?)▽堀秀政・左衛門督]
上田氏[家祖 重氏(?)▽上田重安・主水正]
母里氏[家祖 不明(?)▽母里友信・但馬守]
川勝氏[家祖 広継(?)▽川勝秀氏・主水正]
菅沼氏[家祖 定則(1493-1547)▽菅沼定村・織部正]
荒木氏[家祖 高村(?)▽荒木村重・摂津守]
近藤氏[家祖 満用(?)▽近藤康用・石見守]
藤堂宗氏[家祖 定条(?)▽藤堂高虎・和泉守]
徳永氏[家祖 興昌(?)▽徳永寿昌・式部卿法印]
松永氏[家祖 久秀(1508-1577)▼松永久秀・弾正少弼]
松井松平氏[家祖 松井忠直(?)▽松平康親・周防守]
若林氏[家祖 不明(?)▽若林鎮興・中務少輔]
色部氏[家祖 勝長(1493-1568)▼色部勝長・修理進]
本堂氏[家祖 義親(?)▽本堂茂親・伊勢守]
府中小笠原氏[家祖 長時(1514-1583)▼小笠原長時・大膳大夫]
松尾小笠原氏[家祖 信之(1570-1614)▽小笠原政信・左衛門佐]
下条氏[家祖 信氏(1514-1583)▼下条信氏・伊豆守]
安宅氏[家祖 冬康(?-1564)▼安宅冬康・摂津守]
小笠原氏流
楢岡氏[家祖 不明(?)▽楢岡光信]
小笠原氏流
吉高氏[家祖 盛信(?)▽吉高勘解由・出羽国新庄藩家老]
瓦曽根秋山氏[家祖 信任(?)▽秋山虎繁・武田二十四将]
日比野氏[家祖 弘就(1518-1602)▽日根野高吉・織部正]
溝口氏[家祖 勝政(?)▽溝口秀勝・伯耆守]
平林氏[家祖 正家(?)▽平林正恒・伯耆守]
赤川氏[家祖 元保(?-1567)▼赤川元保・左京亮]
肥前有馬氏[家祖 晴純(1483-1566)▼有馬晴信・修理大夫]
長崎氏[家祖 康純(?)▽長崎純景]
遠藤氏[家祖 直経(?-1570)▼遠藤直経]
有馬氏流
岸田氏[家祖 忠氏(?-1616)▼岸田忠氏・下伯耆守]
有馬氏流
大村氏[家祖 純忠(1533-1587)▼大村純忠・丹後守]
三枝氏[家祖 守綱(?)▽三枝虎吉・土佐守]
三河天野氏[家祖 景貞(?)▽天野藤秀・宮内右衛門尉]
宗像氏[家祖 氏佐(?)▽宗像氏貞・掃部助]
難波田氏[家祖 憲重(?-1546)▼難波田憲重・深大寺城城主]
宮氏[家祖 高盛(?)▽宮景盛・上総介]
大田原氏[家祖 資清(1486-1560)▼大田原資清・備前守]
大田原氏流
大関氏[家祖 高増(1527-1598)▼大関高増・美作守]
長井斎藤氏[家祖 伊豆守某(?)▼斎藤利三・内蔵助]
土居氏[家祖 清宗(?)▽土居清良・式部大輔]
法華津氏[家祖 不明(?)▽法華津前延・西園寺十五将]
西条一柳氏[家祖 宣高(?)▽一柳直盛・下監物]
米津氏[家祖 正種(?)▽米津政武・出羽守]
真柄氏[家祖 家正(?)▽真柄直隆]
安芸児玉氏[家祖 元実(?)▽児玉就忠・毛利家五奉行]
五代氏[家祖 助友(?)▽五代友喜・右京亮]
祁答院氏[家祖 重武(1504-1538)▽祁答院良重・河内守]
鵜飼氏[家祖 岩内(姓)(?)▽鵜飼元辰・鵜新右]
北野氏[家祖 次郎右衛門(?)▽北野孫兵衛・山代十一庄屋]
小松黒沢氏[家祖 小松直信(?)▽黒沢重久(1554-?)]
甲斐原氏[家祖 友胤(?)▽原虎胤・美濃守]
石原氏[家祖 守種(?)▽石原昌明・徳川四奉行]
福留氏[家祖 房吉(?)▽福留親政・飛騨守]
魚成氏[家祖 通親(?)▽魚成親能・上総守]
信頼流[1497-]
甲斐武田氏[家祖 晴信(1521-1573)▼武田信玄・信濃守]
安芸武田氏[家祖 信実(1524-1555)▼武田信実・安芸守]
若狭武田氏[家祖 信豊(1514-1580)▼武田信豊・治部少輔]
松尾氏[家祖 信是(?-1571)▼松尾信是・民部少輔]
河窪氏[家祖 信実(?-1575)▼河窪信実・兵庫介]
真里谷氏[家祖 信隆(?-1551)▼真里谷信政]
湯川氏[家祖 光春(?-1551)▽湯川直光・宮内大輔]
駒井氏[家祖 政武(?-1563)▼駒井政武]
国重氏[家祖 就正(1537-1611)▼国重就正・出雲守]
中山田氏[家祖 泰吉(1544-1619)▼中山田泰吉 ]
城氏[家祖 玉虫貞茂(?)▼城景茂]
武田氏流
仁科氏[家祖 盛信(1557-1582)▼仁科盛信]
武田氏流
松前氏[家祖 慶広(1548-1616)▼松前慶広・伊豆守]
三春浪岡氏[家祖 具運(1532-1576)▽浪岡具運・侍従 ]
馬場氏[家祖 信春(1515-1514)▼馬場信春・美濃守(武田四天王)]
長束氏[家祖 盛里(?)▽長束正家・侍従]
甘利氏[家祖 虎泰(?-1548)▼甘利虎泰・備前守(武田四天王)]
甲斐内藤氏[家祖 昌豊(1522-1575)▼内藤昌豊・大和守]
真田氏[家祖 幸綱(1513-1574)▽真田昌幸・安房守]
海野氏[家祖 幸貞(?1510-?)▼海野幸貞]
勝幡織田氏[家祖 信長(1534-1582)▼織田信長・太政大臣 ]
仙石氏[家祖 秀久(1552-1614)▼仙石秀久・越前守 ]
水野氏[家祖 信元(?-1576)▽水野忠重・和泉守 ]
山内上杉氏[家祖 輝虎(1530-1578)▼上杉謙信・従二位]
宇喜多氏[家祖 直家(1529-1581)▽宇喜多秀家・権中納言]
北氏[家祖 信愛(1523-1613)▽北信愛・尾張守]
森氏[家祖 可成(1523-1570)▼森可成・美濃国金山城主]
関氏[家祖 成重(1528-1592)▽関成政・一宮城主]
庵原氏[家祖 朝儀(?)▽庵原朝昌・井伊氏家老]
久松松平氏[家祖 俊勝(1526-1587)▽松平定勝・左近衛権少将]
中西氏[家祖 不明(?)▽中西元如・ 伊予守]
吉川氏[家祖 元春(1530-1586)▼吉川元春・駿河守]
牧氏[家祖 長義(?)▼牧長義・小林城主]
蘆名氏[家祖 盛氏(1521-1580)▼蘆名盛氏・修理大夫]
竹中氏[家祖 重治(1544-1579)▼竹中重治・軍師]
福岡氏[家祖 重孝(?)▽福岡干孝・山内家中老]
高坂氏[家祖 昌信(1527-1578)▼高坂昌信・弾正忠(武田四天王)]
肥後細川氏[家祖 藤孝(1534-1610)▼細川藤孝・大蔵卿法印]
戸田氏 大垣藩[家祖 氏光(?)▽戸田氏鉄・采女正]
布下氏[家祖 豊正(?)▽布下豊明・伊勢]
金丸氏[家祖 虎嗣(?)▽金丸虎義・筑前守]
今田氏[家祖 経高(1525-1604)▼今田経高・家老]
陸奥相馬氏[家祖 盛胤(1529-1601)▽相馬義胤・長門守]
上野氏 藤原良門流[家祖 秀政(?-1582)▼上野秀政・上野大和守]
白石氏[家祖 宗綱(?)▽白石宗実・若狭守]
椎名氏[家祖 康胤(?-1576)▼椎名康胤・右衛門大夫]
大見安田氏[家祖 長秀(1516-1582)▼安田長秀・安田城主]
亘理氏[家祖 元宗(1530-1594)▼亘理元宗・兵庫頭]
草刈氏[家祖 景継(?)▽草刈重継・対馬守]
矢沢氏[家祖 頼綱(1518-1597)▼矢沢頼綱・薩摩守]
谷氏[家祖 衛好(1529-1579)▽谷衛友・出羽守]
中川氏[家祖 清秀(1542-1583)▼中川清秀・鬼瀬兵衛]
和泉小西氏[家祖 行正(1542-1583)▽小西行長・摂津守]
松倉氏[家祖 重信(1538-1593)▽松倉重政・豊後守]
芦田氏[家祖 信守(?-1575)▽依田信蕃・右衛門佐]
金丸氏流
甲斐土屋氏[家祖 昌恒(?-1575)▼土屋昌恒・右衛門尉]
米倉氏[家祖 重継(?-1575)▼米倉丹後守・足軽大将]
夏目氏[家祖 吉信(1518-1573)▼夏目吉信・徳川家康奉行]
薩摩猿渡氏[家祖 信光(1518-1573)▼猿渡信光・掃部兵衛]
津田氏 織田系[家祖 信澄(1555-1582)▼津田信澄・近江大溝城主]
秋元氏[家祖 景朝(1525-1587)▽秋元泰朝・但馬守]
二宮氏[家祖 就辰(1546-1607)▼二宮就辰・信濃守]
山岸氏[家祖 深沢(?)▽山岸尚家・信濃守]
八木氏 九州南部[家祖 信親(?)▽八木正信・越後守]
一益系滝川氏[家祖 一益(?)▼滝川一益・伊予守]
浅野氏[家祖 長政(1547-1611)▽浅野幸長・侍従(豊臣政権五奉行)]
会津山内氏[家祖 氏勝(1538-1608)▼山内氏勝・刑部大輔]
九鬼氏[家祖 定隆(?)▽九鬼嘉隆・宮内少輔]
摂津高山氏[家祖 重房(?)▽高山右近長房・大蔵少輔]
安芸白井氏[家祖 賢胤(?)▼高賢胤・縫殿助]
近江和田氏[家祖 惟政(1530-1571)▼和田惟政・紀伊守]
田沼氏[家祖 重綱(?)▼田沼意次・侍従]
青木氏 麻田藩[家祖 重直(1529-1516)▽青木一重・民部少輔]
小出氏[家祖 秀政(1540-1604)▼小出秀政・播磨守]
小山田氏[家祖 信有(1519-1552)▼小山田信有・出羽守]
若槻氏[家祖 清尚(?-1548)▼若槻清尚・左京亮]
禰津氏[家祖 元直(?)▽禰津常安・美濃守]
恩田氏[家祖 不明(?)▽恩田民親・木工]
兼松氏[家祖 清秀(?)▽兼松正吉・修理亮]
毛受氏[家祖 照昌(?)▽毛受勝照・勝介]
高木氏[家祖 清秀(1526-1610)▼高木清秀・主水助]
富田氏 宇多源氏佐々木氏流[家祖 一白(?-1599)▽富田信高・信濃守]
佐々氏[家祖 成政(1539-1588)▼佐々成政・侍従]
依田氏[家祖 芦田信守(?-1575)▽依田信蕃・右衛門佐]
瀬戸口氏[家祖 重為(?)▼瀬戸口重為・示現流開祖]
瀬戸口氏流
東郷氏[家祖 重治(?)▽東郷重治]
上野原加藤氏[家祖 虎景(?)▼加藤虎景・駿河守]
奥村氏[家祖 永福(1541-1624)▼奥村永福・伊予守]
広瀬氏[家祖 宗域(?-1583)▼広瀬宗域・山城守]
百地氏[家祖 正永(?)▽百地丹波・丹波守]
三宅氏[家祖 正貞(?)▽三宅康貞・三河挙母藩初代藩主]
越後斎藤氏[家祖 朝信(1527-1592)▼斎藤朝信・下野守]
大国氏[家祖 樋口兼村(?)▼大国実頼・諸大夫]
大宝寺氏[家祖 寺九郎(?)▽大宝寺義氏・出羽守]
岡田藩伊東氏[家祖 長久(1533-1558)▼伊東長久]
片桐氏[家祖 直貞(1521-1591)▼片桐且元・東市正]
野々村氏[家祖 正成(1527-1592)▼野々村正成・主水正]
三河小栗氏[家祖 吉忠(1527-1590)▼小栗吉忠・代官]
甲斐浅利氏[家祖 虎在(?)▽浅利信種・式部丞]
稲田家[家祖 貞祐(?)▽稲田植元・洲本城代稲田家の祖]
増田氏[家祖 長盛(1545-1615)▽増田長盛・右衛門少尉]
坪井氏[家祖 元政(?)▽坪井元政・和泉守]
福岡氏[家祖 重孝(?)▽福岡干孝・土佐藩士]
曾我氏[家祖 元助(?)▽曾我古祐・丹波守]
家頼流[1521-]
木下氏 足守藩[家祖 家定(1543-1608)▼木下家定・中納言]
木下氏 日出藩[家祖 延俊(1577-1642)▼木下延俊・右衛門大夫]
中山氏[家祖 家範(1548-1590)▽中山信吉・備前守]
三村氏[家祖 家親(?-1566)▼三村家親・紀伊守]
椋梨氏[家祖 弘平(?)▽椋梨弘平・常陸守]
杉原氏[家祖 家次(?-1584)▽杉原長房・伯耆守]
木梨氏[家祖 元恒(?)▽木梨元次・壱岐守]
志村氏[家祖 真武(?)▽志村貞盈・又左衛門]
小池氏[家祖 家継(?)▼小池家継・美濃国今城主]
栗田氏[家祖 永寿(?)▽栗田鶴寿・甲斐善光寺別当]
頼信流[1530-]
雑賀鈴木氏[家祖 重秀(?)▼鈴木重秀・雑賀衆]
米沢直江氏[家祖 兼続(1560-1620)▼直江兼続・山城守]
伊達氏[家祖 政宗(1567-1636)▼伊達政宗・権中納言]
亘理伊達氏[家祖 成実(1568-1646)▼伊達成実・安房守]
片倉氏[家祖 景綱(1557-1615)▼片倉景綱・備中守(軍師)]
遊佐氏[家祖 祐信(?-1581)▽遊佐続光・安房守]
可児氏[家祖 吉長(1554-1613)▼可児才蔵・槍の名手]
結城松平氏[家祖 秀康(1574-1607)▼結城秀康・正二位]
本多氏 平八郎[家祖 忠勝(1548-1610)▼本多忠勝・中務大輔]
山中氏[家祖 幸盛(1548-1610)▼山中幸盛・鹿介]
真壁氏[家祖 氏幹(1550-1622)▼真壁氏幹・鬼真壁]
井伊氏[家祖 直政(1561-1602)▼井伊直政・侍従]
三河榊原氏[家祖 康政(1548-1606)▼榊原康政・式部大輔]
馬籠佐藤氏[家祖 信実(?)▼佐藤信実]
置賜佐藤氏[家祖 重元(?)▼佐藤重元]
美濃佐藤氏 加茂郡川小牧[家祖 信則(?)▼佐藤信則・紀伊守]
酒井氏 雅楽頭[家祖 重忠(1549-1617)▽酒井忠世・侍従(大老)]
立花氏 柳川藩[家祖 宗茂(1567-1643)▼立花宗茂・飛騨守]
阿部氏 徳川譜代[家祖 正次(1569-1647)▽阿部正福・伊勢守]
甘粕氏[家祖 景持(?-1604)▼甘粕景持・近江守]
備中守中村氏[家祖 祐宗(?-1577)▼中村祐宗・備中守]
三河井上氏[家祖 正就(1577-1628)▼井上正就・主計頭(老中)]
土井宗氏[家祖 利勝(1573-1644)▼土井利勝・侍従(大老)]
六郷氏[家祖 道行(?)▽六郷政乗・兵庫頭]
近江蒲生氏[家祖 氏郷(1556-1595)▼蒲生氏郷・参議]
小早川氏[家祖 秀秋(1582-1602)▼小早川秀秋・権中納言]
脇坂氏[家祖 安治(1554-1626)▼脇坂安治・淡路守]
中井氏[家祖 正清(1565-1619)▼中井正清・大工]
土佐山内氏[家祖 一豊(1545-1546)▼山内一豊・土佐守]
永井氏[家祖 直勝(1563-1626)▼永井直勝・右近大夫]
入来院氏[家祖 重時(1573-1600)▼入来院重時・弾正少弼]
藤田氏[家祖 信吉(1559-1616)▽藤田信吉・能登守]
津軽氏[家祖 為信(1550-1608)▼津軽為信・右京大夫]
石田氏[家祖 三成(1560-1600)▼石田三成・治部少輔]
石田氏流
津軽杉山家[家祖 石田重成(1560-1600)▼杉山吉成・弘前藩士]
福島氏 高井野藩[家祖 正則(1561-1624)▼福島正則・参議(七将)]
中村氏[家祖 一氏(1560-1600)▼中村一氏・式部少輔]
速水氏[家祖 時久(?)▽速水守久・甲斐守]
備中清水氏[家祖 宗治(1537-1582)▽清水宗治・贈従四位]
糟屋氏[家祖 武則(1562-?)▼糟屋武則・内膳正]
天草氏[家祖 鎮尚(?)▽天草久種・弾正忠]
内田氏 相良氏流[家祖 鎮家(?-1619)▼内田鎮家・家老職・武者奉行]
上妻氏[家祖 鎮房(?)▽上妻鎮政]
尾張中島氏[家祖 氏種(?-1615)▼中島氏種・式部少輔]
城戸氏[家祖 知正(?)▽城戸清種・豊前守]
近江木村氏[家祖 定成(?)▽木村重成・長門守]
柳沢氏[家祖 信俊(1548-1614)▽柳沢吉保・美濃守]
坂井氏[家祖 政尚(?-1570)▼坂井政尚・右近尉]
喜多見氏[家祖 勝忠(1568-1628)▼喜多見勝忠・若狭守]
有吉氏[家祖 立行(1559-1608)▼有吉立行・武蔵守]
大谷氏[家祖 吉継(1547-1611)▼大谷吉継・刑部少輔]
村田氏[家祖 吉次(1565-1621)▼村田吉次・出羽守]
原田氏[家祖 宗時(1565-1593)▽原田宗輔・仙台藩重臣]
名古屋氏[家祖 山三郎(1572-1603)▼名古屋山三郎・歌舞伎の祖]
伊達氏流
田村氏[家祖 宗良(1637-1678)▼田村宗良・隠岐守]
尾張武藤氏[家祖 舜秀(?-1579)▼武藤舜秀・馬寄城主]
達頼流[1534-]
頼勝流[1567-]
奥平松平家[家祖 忠明(1583-1644)▼松平忠明・下総守]
東条松平家[家祖 忠吉(1580-1607)▼松平忠吉・薩摩守]
頼通流[1574-]
尾張徳川家[家祖 義直(1601-1650)▽徳川宗春・権大納言]
紀州徳川家[家祖 頼宣(1602-1671)▽徳川吉宗・八代将軍(右大臣)]
水戸徳川家[家祖 頼房(1603-1661)▽徳川慶喜・十五代将軍(内大臣)]
会津松平家[家祖 正之(1611-1673)▼保科正之・左近衛権中将兼肥後守]
越智松平家[家祖 清武(1663-1724)▽松平武元・右近衛将監]
堀田宗氏[家祖 正盛(1609-1651)▽堀田正盛・加賀守(老中)]
分部氏[家祖 光信(1591-1643)▼分部光信・左京亮]
間部宗家 西田氏流[家祖 詮房(1609-1651)▼間部詮房・侍従(老中格)]
信実流[1596-]
統一那須氏[家祖 資弥(1628-1687)▼那須資弥・遠江守]
徳川宗家[継承 綱吉(1646-1709)▼徳川綱吉・右大臣]
藤井氏[家祖 徳昭(?-1695)▼藤井徳昭・水戸藩家老]
その他家名
松平京家頼盛流
茂木氏
松平京家信頼武田氏流
長渕氏
主な人物一覧
姓が重複しない人物を中心に関連された一部の主な人物を取り上げる。
室町時代
1336-1602
武士
武将
?-1561?(京家)
小島弥太郎[主君 上杉謙信 渾名 鬼小島]
剣豪・兵法家
1452-1538(京家)
塚原卜伝[開祖 鹿島新當流]
1508-1606(京家)
上泉信綱[開祖 新陰流]
1540-1629(京家)
丸目長恵[開祖 タイ捨流兵法]
?-1612(京家)
佐々木小次郎[開祖 巖流]
江戸時代
1603-1867
武士
志士
1829-1864(京家)
古高俊太郎[所属 攘夷派の志士]
1833-1877(京家)
木戸孝允[所属 勤王志士 流派 神道無念流]
1833-1907(京家)
内村宜之[所属 高崎藩士]
1834-1872(京家)
河上彦斎[所属 攘夷派の熊本藩士 流派 雲弘流]
1836-1867(西家)
坂本龍馬[所属 土佐藩士(海援隊) 流派 北辰一刀流]
1838-1867(京家)
中岡慎太郎[所属 土佐藩郷士(陸援隊) 流派 鏡心明智流]
1839-1915(京家)
永倉新八[所属 新選組隊士 流派 心形刀流]
旗本
1769-1842(北家)
松田伝十郎[職業 探検家 制作 樺太見聞の実測図]
1833-1911(京家)大鳥純彰《蘭学者 軍事学者etc.》
大鳥圭介[職業 医師 主作 『砲科新論』]
軍人・政治家
1836-1908(京家)大鳥純彰《幕臣 海軍軍人etc.》
榎本武揚[階級 海軍中将 主作 『渡蘭日記』]
儒学者
1666-1728(京家)荻生茂卿《思想家 文献学者》
荻生徂徠[開塾 蘐園塾 主作 『弁道』]
1712-1767(京家)竹内式部《神道家 尊王論者》
竹内敬持[学派 崎門学派 主作 『奉公心得書』]
1781-1832(京家)頼襄《歴史家 思想家etc.》
頼山陽[開塾 青山社 主作 『日本外史』]
1829-1864(京家)梅田定明
梅田雲浜[開塾 湖南塾 学派 崎門学派]
1829-1864(京家)室直清
室鳩巣[所属 江戸幕府 主作 『駿台雑話』]
文芸
俳人・連歌師
1605-1682(京家)西山豊一
西山宗因[開祖 談林派 主作 句碑・八代城跡]
1763-1828(京家)小林弥太郎
小林一茶[庵号 二六庵 主作 『父の終焉日記』]
明治時代
1868-1912
文学者
小説家
1864-1909(京家)森林太郎《評論家 翻訳家etc.》《医学博士 文学博士》
森鷗外[所属 帝室博物館 主作 『舞姫』]
1864-1909(京家)長谷川辰之助
二葉亭四迷[流派 自然派 主作 『小説総論』]
1868-1903(京家)尾崎徳太郎
尾崎紅葉[流派 新派 主作 『二人比丘尼色懺悔』]
1867-1916(京家)夏目金之助
夏目漱石[流派 余裕派 主作 『吾輩は猫である』]
1872-1896(京家)樋口奈津
樋口一葉[主作 『大つごもり』『十三夜』]
1872-1943(京家)徳田末雄
徳田秋声[所属 帝国芸術院会員 主作『新世帯』]
1872-1943(京家)島崎春樹
島崎藤村[所属 帝国芸術院会員 主作『若菜集』『嵐』]
1873-1939(京家)泉鏡太郎
泉鏡花[所属 帝国芸術院会員 主作『義血侠血』]
1889-1962(京家)室生照道
室生犀星[所属 日本芸術院会員 主作『蜜のあはれ』]
1909-1948(京家)津島修治
太宰治[流派 無頼派 主作『走れメロス』『津軽』]
作劇家
1877-1941(京家)《文学博士》
中村吉蔵[所属 早稲田大学教授 主作『牧師の家』]
実業家
1910-1989(北家)
飯島藤十郎[創業 山崎製パン]